将軍継嗣問題を契機に大老に就任した井伊直弼は、一橋派に対する大弾圧“安政の大獄”を断行する。
これは尊王攘夷派の憤激を呼び、井伊直弼は桜田門外で暗殺された。
大老暗殺事件という江戸幕府始まって以来の大事件以降、幕府の権威は失墜していく。
日米修好通商条約調印から五日後の1858年6月24日(旧暦)、一橋派の越前藩主・松平慶永、水戸藩主・徳川慶篤と前藩主・徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らは、大挙して江戸城に登城する。
違勅調印を断行した井伊直弼らの責任を問う為であった。
これに対して井伊は、違法な登城として一橋派への大弾圧に乗り出す。
いわゆる安政の大獄である。
弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らにも及んだ。
通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊王攘夷派の反発を招いた。
取り分け尊王を旨とする水戸学のお膝元水戸藩では、井伊直弼に対する反発が高まっていた。
1860年3月3日朝、江戸は時ならぬ春の雪に見舞われていた。
彦根藩邸を出立し、登城の途にあった大老一行約60人が桜田門外に差し掛かった時、銃声を合図に抜刀した一団が行列に向かって襲い掛かった。
脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃であった。
弾丸に腰を撃ち抜かれた井伊は、駕籠に乗ったまま首をかかれた。
護衛の士たちは刀を帯びていたものの、雪のため身に付けていた雨合羽と刀を覆う柄袋に動きを封じられたという。
この桜田門外の変を境に、幕府の権威は陰りを帯び始める。