米国の圧力に屈した井伊直弼は勅許を得ないまま通商条約に調印。
これが、幕府内の亀裂を決定的に深める事となった。
通商と将軍継嗣をめぐる幕府内のでの混乱が続き、後の幕府の崩壊へと繋がっていく。
日米和親条約締結から2年経った1856年、アメリカ総領事ハリスが下田に到着した。
翌1857年10月に江戸入城を果たしたハリスは、中国侵略を進めるイギリスの危険性を強調する一方、友好的な米国との通商条約締結の意義を老中・堀田正睦に説いた。
さらに、幕閣の中に貿易の利益独占による幕府再興を主張する者が現れるに及んで、堀田は遂にハリスとの交渉を決断する。
交渉の末、1858年1月、両者は一応の妥結をみる。
しかし、幕府が近代的な世界観を十分理解していなかった事もあって、関税自主権がなく、治外法権を認める、など米国に一方的に有利な内容の条約となった。
堀田正睦は条約締結に関する勅許を得る為、京都に乗り込んだ。
しかし、攘夷に固執する朝廷を説き伏せる事は出来なかった。
朝廷と各藩大名の協力を得て国難に対処しようとする幕府の意図は、早くも暗礁に乗り上げる形となった。
折も折、将軍家定に子がなかった事から、将軍継嗣をめぐり、御三卿・一橋家の慶喜を推す一橋派と、御三家・紀伊藩の慶福を推す南紀派の対立が露わとなる。
越前藩主・松平慶永、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内豊信らは、英明な慶喜を擁立して幕政を改革し、難局を切り抜けようとした。
一方、将軍家の血縁と幕府の権威回復を重視する南紀派は、将軍家定らに働き掛け彦根藩主・井伊直弼を大老に登用、これに対抗した。
慶喜の実父であり、尊王攘夷論者である徳川斉昭の権力伸長を恐れる家定は、結局は慶福(後の家茂)の将軍継嗣を決定した。
一方、井伊直弼がハリスに押し切られ、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印すると、政局は大きく転回していく事になる。
なお、井伊直弼は、通商によって日本の国力を高めた後に再び鎖国する、といった独自の構想を持っていたとの見方もある。
西暦 | 出来事 |
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1853年 | 7月8日 ペリー来航 |
1854年 | 3月31日 日米和親条約調印 |
10月14日 日英和親条約調印 | |
1855年 | 2月7日 日露和親条約調印 |
1856年 | 1月30日 日蘭和親条約調印 |
8月21日 ハリス到着 | |
1858年 | 7月29日 日米修好通商条約調印 |
8月18日 日蘭修好通商条約調印 | |
8月19日 日露修好通商条約調印 | |
8月26日 日英修好通商条約調印 | |
10月9日 日仏修好通商条約調印 | |
1859年 | 7月1日 横浜開港 |
7月1日 長崎開港 | |
7月1日 箱館(函館)開港 | |
1868年 | 1月1日 神戸開港 |
1月1日 大坂開市 | |
1869年 | 1月1日 江戸開市 |
1月1日 新潟開港 |