禁門の変

禁門の変

八月十八日の政変で都を追われ巻き返しを謀る長州藩だったが、池田屋事件で新撰組に藩士を殺害されると、遂に御所襲撃の暴挙に出た。
尊攘派の暴走で長州藩は窮地に陥る。

禁門の変を伝える瓦版

禁門の変を伝える瓦版
戦火によって京都市中2万8000戸が焼失
大砲の音にちなんで「どんどん焼け」と称された

禁門の変勃発

池田屋事件で長州藩士が殺傷される

尊王攘夷派(尊攘派)の牙城とされた長州藩は、再起をかけ、その機会を窺っていた。
1864年6月、京都の旅籠池田屋で決起を画策していた長州藩士吉田稔麿ら尊攘派が、新撰組に殺傷される事件が起こる(池田屋事件)。
その報せは藩論を京都進発へと傾けた。

長州藩が御所を襲撃

池田屋事件での報せを聞いた来島又兵衛ら長州藩内の急進派は、7月15日に兵を率いて京に出発した。
家老・福原越後らは伏見、真木和泉久坂玄瑞らは山崎、来島らは嵯峨天龍寺に布陣して、京都三方から取り込んだ。
16日、朝議で長州征討が決定すると、一橋慶喜は京に駐在する諸藩に御所の各門の警備を固めさせた。

2000の藩兵で京都を包囲した長州軍は、無実を主張する訴状を差し出すが拒絶される。
かくして長州藩は、公武合体派排除、京都奪還の欠航に踏み切った。
禁門の変の勃発である。

蛤御門で長州軍は敗走

御所に押し寄せた長州軍は、会津軍の警護する蛤御門へと殺到する。
御所内に突入仕掛けたが、薩摩軍に背後を襲われ、敗北を喫した。
来島は銃弾を受けて戦死、久坂や真木も自刃した。

幕府に屈した長州藩

下関戦争

1864年8月、窮地に陥った長州藩に、前年下関海峡で砲撃を受けた英米仏蘭四国による連合艦隊が報復攻撃を開始。
農民らで組織された奇兵隊の反撃も空しく、長州軍は降伏した。

尊攘運動は大きく後退

一方、長州藩追討の勅命を得た幕府は15万の軍勢を進発させた(第一次長州征討)。
ところが、征長軍は長州を包囲したものの、戦火を交えぬまま12月には撤兵を開始。
尊攘派に代わり長州藩の実権を掌握した佐幕派が謝罪に努め、禁門の変の責任者である3家老の切腹などを約したからである。
一連の戦いを通じて、尊王攘夷運動は大きく後退を余儀なくされた。

公武合体派と尊王攘夷派の動き

西暦 幕府・公武合体派 長州藩・尊王攘夷派
1862年 7月 幕府、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽(慶永)を政事総裁職に任命
8月 薩摩藩の島津久光一行、生麦村でイギリス人を殺傷(薩英戦争の原因)
閏8月 幕府、参勤交代制を緩和
6月 長州藩、公武合体派の重臣長井雅楽に謹慎を命ず(藩論を尊王攘夷に転換)
12月 長州藩士高杉晋作ら、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼打ち
1863年 7月 薩英戦争 薩摩藩、鹿児島湾でイギリス艦隊と交戦
8月 八月十八日の政変、公武合体派のクーデターにより尊王攘夷派公家を都から追放、三条実美ら7人の公家が、長州へ都落ち(七卿落ち)
12月 朝廷、公武合体派の一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂(豊信)らを参預会議が発足
5月 長州藩が下関でアメリカ商戦、フランス軍艦などを砲撃
6月 高杉晋作が奇兵隊を創設
1864年 3月 参与会議解体(公武合体運動の挫折)
6月 新撰組が池田屋で謀議中の尊王攘夷派を襲撃し殺傷(禁門の変の誘因)
7月 禁門の変、長州藩兵が京都に攻め上るが、薩摩、会津藩兵に惨敗
7月 第一次長州征討、幕府が西南諸藩に長州征討の出兵を命じる
8月 四国連合艦隊、下関を砲撃、占領
10月 長州藩、幕府に恭順謝罪

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