江戸時代中期-後期

江戸時代 中期〜後期の経済政策

六代将軍家宣と、正徳の治

徳川綱吉が死去し、甲府藩主の綱豊(つなとよ)が徳川家宣(いえのぶ)として六代将軍に就任した。
側用人の間部詮房(まなべあきふさ)と儒者の新井白石(あらいはくせき)は甲府時代からの家宣を支えてきた人材であった。
この二人の治世は正徳の治(しょうとくのち)と呼ばれ、政治の刷新を図るためにまず、「生類憐みの令」を廃止した。
ただ、忠孝・礼儀を重んじた綱吉の政治方針は受け継がれていくのである。
朝廷とも協調路線が取られていく。
それまでの三宮家(さんのみやけ:世襲親王家)では天皇の子弟の受け入れが不可能となっていた為、特例として閑院宮(かんいんのみや)を設け追加したのだ。

新井白石の経済改革

綱吉時代から引き続いて勘定奉公を務めていた荻原重秀は、幕府の収入を増やすため貨幣を改悪し、経済を悪化させた(元禄小判)。
白石はこれを罷免し、元禄小判よりも前の小判と同じ質量の正徳小判(しょうとくこばん)を発行した。
貨幣流通の立て直しに取り掛かるとともに、海外へ流出する金銀を制限する「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」を出して長崎貿易に制限を掛けたのだ。
この長崎貿易は幕府収入の柱となっていたのだが、財政の体質全体を改善する必要があったのだ。
また、賄賂を厳禁する事で、役人の意識改革も行った。
しかし、この時、将軍家宣が病死する。その後の将軍の徳川家継(いえつぐ)も早世してしまう。
自分を重用してくれた家宣の死により、白石の政治生命も幕を閉じる事となった。

特産物の栽培と、農民の貨幣経済への参入

17世紀の半ばから干拓などの土地開発によって、田畑の面積が拡大していった。
さらに農具の発達、肥料の改良などもあり、農業の生産力は急速に向上していく。
経済的な余裕が生まれると、年貢米以外の作物の栽培が各地で行われるようになった。
土地ごとにその地域に適した作物が作られ、後に特産物へと変化していったのだ。
これらの特産物を販売する事で、農民たちも貨幣を得る機会が増していく事になる。
よって、農民たちも貨幣経済に参入していく結果となるのである。

戦が終わり、全国で商品や金・銀が流通する

農業以外でも、漁業、林業、鉱山業、手工業などあらゆる産業が、江戸時代初期から中期に掛けて大きな発展と遂げた。
戦国時代ではありえなかった、東廻りや西廻りの航路が確立され、陸海ともに交通網が充実していく。
商品の流通量も増加し、商品価格の地域差も少なくなるのだ。
この時代に利益を上げたのは「仲間(なかま)」という同業者組合を作り、江戸と大坂間などの商品流通の独占を図った問屋商人たちであった。
その代表は伊勢松坂出身の商人で、後に三井となる越後屋でした。
また、当時の取引では江戸では金が、大坂では銀が主に使われていた。
そのため両替商といわれる、現在でいう銀行のような職業も存在した。

吉宗の享保の改革

家継が早世すると、徳川宗家が絶えた為、紀伊藩主の徳川吉宗が八代将軍となった。
吉宗は、家康時代への復古を目指し、老中や若年寄を重視した改革へ乗り出した。
依然として厳しい財政状況を解決する為、吉宗は勘定方の整備や人口、耕地面積調査などを実行する。
支出を減らす為に、倹約令(けんやくれい)を出し、自らも食事は玄米の一汁三菜(いちじゅうさんさい)としたのだ。
一方、幕府の財源を安定させるために上げ米と定免法を実施する。
これにより年貢収入は増加するが、米の相場が下落し、一般の物価は上昇してしまう。
特に良い効果はなかった吉宗の改革は、米価との戦いだった。

農民たちの生活は苦しくなる一方

財政縮小の他、有能な人材を集める足高の制(たしだかのせい)、漢訳洋書の輸入目安箱の設置など、吉宗の政策は評価を得ているものが多い。
しかし一方で、経済対策ではかなりの苦労があった。
商取引などの金銭トラブルに対して相対済し令を出したが、負債を返済しないケースが増加し失敗してしまう。
農村対策でも、年貢増微策は農民を圧迫し、田畑を手放し小作人となる農民に対する政策も効果がなかったのだ。
さらに風水害や享保の飢饉に襲われ、農民や町人は不満が爆発する。
各地で一揆が続発し、江戸では初めての打ちこわしが起きる結果に終わった。

田沼意次の商業経済

吉宗の時代まで、幕府は農民から年貢を取って、それを流通させるという立場であった。
しかし、既に米を基盤とする経済は苦しい環境に置かれていたのだ。
10代将軍 徳川家治(いえはる)の側用人・老中となる田沼意次(たぬまおきつぐ)は、既に全国規模で流通経済が展開している事に着目し、大々的な政策転換を行った。
「米」から「金」へ視点を移し、商人たちの株仲間を公認する代わりに徴税を行ったのだ。
幕府その物が商人化したともいえる政策である。
それまで東日本は金西日本は銀全国共通の銭は銅、と分かれていた貨幣制度を一本化したのだ。
意次は、未開発であった蝦夷地の開発も計画していた。
資源開発と、北方のロシアとの交易を考えていたのだ。
しかし、飢饉や農民の一揆が頻発し、貨幣経済が与えた庶民への負担も重なり、意次は罷免されてしまうのであった。

若き老中 松平定信

田沼意次の失脚後、田沼派と御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家、一橋家、清水家)が対立する事になる。
御三卿とは吉宗が御三家と疎遠になった為に置いたものだ。
11代将軍の徳川家斉が就任した後も権力争いは続いていた。
そんな時に江戸と大坂で米価高騰のために打ちこわしが発生する。
幕府は内輪もめをしている場合ではなくなり、白河藩主の松平定信(さだのぶ)が老中に就く
定信はこの時30歳であった。

定信の寛政の改革

祖父の徳川吉宗の治世を理想とする青年老中は、田沼時代を否定し、農業を基本にした社会の復興を目指して改革を行った。
これが寛政の改革である。
この頃、凶作や飢饉が続き、幕府の財政は危機的な状態にあった。
定信は朝廷大奥大名から町人農民に至るまで厳しい倹約を求めたのだ。
経済的に困窮する御家人対策として、借金返済を免除する棄捐令(きえんれい)を出したが、返って金融面は混乱してしまう。
また、荒廃した農村を復興させるために、農民を農村に戻させ、農村の人口増加や農地整備に資金を投入した。
その一方、飢饉対策として、米を備蓄させたのである。
しかし、贅沢を禁じ、思想や風俗も厳しく統制した政策は民衆の反感を買ってしまう。
また、家斉との対立もあって、定信の寛政の改革は6年ほどで挫折する事になる。

異国船の接近

ロシアが日本への干渉を開始

1770年代後半から、ロシア船の来航が急増する。
当時の欧米は、イギリスに産業革命が始まり、大きく変化しつつある時代だった。
そして、フランス革命が起こり、ナポレオン登場の時代を迎える。
当時のロシアは極東の経営に真剣に取り組み始めていた。
ラクスマンが長崎への入港許可書を得ると、レザノフがそれを携えて長崎を訪れた。
この時幕府は、ロシアとの通商を拒否してしまう。
これによりレザノフは軍事的な圧力の必要性を感じ、樺太への攻撃を行った。
この後、幕府は蝦夷地全土を直轄地とした。

フェートン号事件

一方、長崎ではイギリスの軍艦フェートン号がオランダ人を人質に食料などを求める事件が発生した。
その背景にはナポレオンによって占領されたオランダを、イギリスが敵国とみなした事に関係している。
当時のヨーロッパでの情勢が確実に、極東の日本にまで及んでいたのである。

異国船内払令

ロシアとの関係はワシーリー・ゴローニンを捕らえた事で緊張関係になってしまうが、高田屋嘉兵衛という海商の功績によって改善された。
しかし、今度はイギリス船が浦賀などに頻繁に表れ始める。
幕府は異国船内払令という強硬策に出るのであった。
この政策が表立って問題視される切っ掛けとなったのが「モリソン号事件」である。
来航目的も問わずに追い返した事を、洋学者の渡辺華山や高野長英が厳しく非難したのだ。
しかし、幕府は日本を取り巻く情勢をよく理解していた学者を処罰してしまったのだ(林子平という人物も過去に処罰された)。
この事件は「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」と呼ばれる。

天保の改革

将軍家斉が死去すると、老中水野忠邦は改革に本腰を入れた。
目指したのは享保・寛政の政治の復古であり、商品経済の秩序を正して幕府の権威を回復する事であった。
忠邦は厳しい倹約令を出し、風俗の統制を強化した。
物価騰貴への対策として、株仲間を解散させた。
しかし物価が上がったのは貨幣の大量改鋳と流通構造が原因だったため、ほとんど効果はなかった
寛政時代の農民を農村へ戻す政策も、より強化され、人返しの法として実施された。
風俗の統制とともに、忠邦は庶民に対して厳しい政策を行ったため、人々は不満を募らせる事になってしまう。
わずか2年間に出されたお触れは180にも及んだといわれている。

幕府の権威の失墜と上知令

家斉は死の前年に子を養子にした松平家を豊かな庄内に移すため三方領地替を命じていた。
しかし庄内の酒井家や有力大名らが猛反発する。
家斉の死後、将軍家慶は忠邦の反対を押し切って領地替えを中止した。
これは幕府の力が弱まっている事を意味する。
忠邦は幕府の権威を強化するために、江戸と大坂の10里四方を幕府の直轄とする上知令(じょうちれい)を発布した。
頻繁に出没し始めた異国船に対処する目的もあったが、これに諸大名たちが強く反対した為、上知令も撤回された。
これをもって、忠邦の天保の改革も失敗に終わったのだ。

産業を興した雄藩

享保、寛政、天保と江戸幕府が断行した改革は、結局どれも失敗に終わった。
それは農業を基盤とし、年貢を徴収する事で成り立つ幕藩体制の行き詰まりを意味していた。
特に、凶作や飢饉が続いた天保期は、各地の農村は荒廃していくばかりであった。
二宮金次郎はそんな時代に農村の復興に力を注いだ。
しかし、貨幣経済の浸透による賃金労働が行われはじめ、商品経済が本格化していく時代の流れはもはや変えようがなかったのだ。
体制崩壊の危機を迎え、幕府でも諸藩でもさらなる改革が進められた。
どの藩も借金が大問題であったが、それを乗り越えて産業を興した藩が現れる。
その藩らが、やがて幕末に重要な役割を担う雄藩となっていくのだ。

雄藩らの財政対策

全国の雄藩における根本的な共通点は、有能な人材をうまく利用する環境に恵まれていた事であった。
彼らが真っ先に取り込んだのは財政改革だ。
薩摩藩の調所広郷(ずしょひろさと)は、500万両の借金を無利子で250年の分割払いという、ほぼ踏み倒しに近い方法を執った。
その一方で盛んに密貿易を行う事で、巨利を得て財政を建て直したのだ。
長州藩の村田清風も同様に、借金問題を棚上げし、財源を確保したのだ。
借金解決の方法は様々であったが、いずれにしても商品・流通経済や工業を積極的に取り入れる事で、雄藩は危機を乗り切ったのだ。
その後は軍事力の強化を行い、雄藩は江戸幕府に対抗出来る力を備えていったのだ。


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