江戸の水源ダム「溜池」

江戸の水源ダムだった「溜池」

玉川上水ができる前の水源

現代では「溜池山王」という地名のみ

玉川上水ができる前、江戸の水源ダムは「溜池」だった。
江戸では慢性的に不足していた飲み水を確保する為に江戸幕府は江戸時代に掛けて多くの施策を打つが、「溜池」はその走りだった。
現代では埋め立てられ「溜池山王」という地名のみが残る。
「溜池」ができるまでについて簡単にまとめる。

江戸の慢性的な飲み水不足

豊臣秀吉に臣従した徳川家康はその後、江戸へ移ることとなった。
江戸へ移った家康を待ち受けていた難題が、江戸の慢性的な飲み水不足であった。
飲み水の確保は江戸の繁栄のための第一条件だったが、家康はいかにそれを実現したのか。

発展した江戸の飲み水はどこから?

後に百万都市に成長した江戸であるが、その飲み水をどこから得ていたのか。

玉川上水は1653年以降の主水源

江戸の生活用水といえば、開削の指揮をとった玉川兄弟の名が残る「玉川上水」であったことが知られている。
1653年以降、多摩川から江戸周辺の農業用水および住民たちの飲料水を送り続け、百万都市・江戸の繁栄を支え続けた存在であった。

だが、家康が江戸に入ったのは1590年で、江戸幕府の開府は1603年である。
玉川上水の完成まではずいぶんと開きがあるが、徳川一党と江戸市民はべつの水源から飲み水を得ていた。

かつて江戸の川水は海水が混ざっていた

水も汲みあげる方法すらもなかった

1590年当時、武蔵野台地の東端の低地には利根川や荒川が江戸湾へ向けて流れ込んでいた。
しかし、それらの川の水は、江戸湾の海水が混ざり込んでおり、飲み水としては使えなかった。
もし、それが使えたとしても、当時はポンプもないので高台に汲み上げる手段がなかった。

小石川上水・神田上水ができる

大久保藤五郎(主水)

そこで家康は、家臣の大久保藤五郎という者に江戸の上水の確保を命じた。
藤五郎は期待に応え、小石川上水を引いた。これが後の神田上水である。
これで当面の水は確保され、藤五郎は「主水」という名を家康から授かっている。

関ヶ原の戦い後、本格的な治水工事が始まる

時間を掛けて江戸の台地が生まれ変わる

関ヶ原の戦い(1600)に勝利した家康は、江戸の大規模な拡張に乗り出す。
神田の高台を削り、日比谷の入江を埋め立てて城下町を造った。
同時に、大規模な治水工事を施し江戸湾に流れ込んでいた利根川を東の銚子へ流れ込むように変えた。
これで江戸を洪水から守り、同時に関東の湿地帯を乾燥させての水田化が実現したわけである。

「溜池」〜手伝普請で築かれる

大名らが手伝った「手伝普請」

上記の工事は全国の諸大名に費用を負担させて行なう「手伝普請」という大掛かりなもので、徳川幕府の権威を知らしめるものだった。

浅野家によって「溜池」が造られる

その「手伝普請」の中で、和歌山藩の手伝普請で築かれた江戸時代のダムの浅野家が手がけたのが「溜池」および、ダム建設だった。

清水谷から清涼な水が流れていた

現在の「溜池」の交差点あたり

その場所は皇居の南西部、現在の千代田区と港区の境に位置する首相官邸のすぐ南、「溜池」の交差点あたりだ。
そこから1キロメートルほど北にある「清水谷」からは清浄な水が湧き出ており、現在の赤坂から溜池にかけての低湿地に流れ込んでいた。
家康はこれをせき止め、飲料水の貯水池、つまり「溜池」を造ろうと考えたのである。

江戸時代の近代的な水資源制御

後に溜池と玉川上水が連結された

そして浅野家はそれを完成させ、日本初の飲料水と江戸城防御の多目的ダムに仕上げた。
この溜池の完成からほぼ半世紀後に総延長43キロメートルの玉川上水が完成。玉川上水は溜池に連結され、多摩川からの水が豊富な時にはここに貯水できるようにした。
現代とまったく変わらない近代的な水資源制御システムがこのとき構築されたのである。

明治後期に埋め立てられた

この溜池は明治維新の後もなお東京市民に水を提供し続けたが、人口の急増によって周辺環境は急激に変化し、水質の悪化を招いた。
1898年、多摩川の水は新宿西口に完成した淀橋浄水場に直接送り込まれ、溜池に清浄な水の流入がストップした。
その後は埋め立てられ、現在は商業地となっている。

現在では「溜池山王」の地名だけが残る

明治時代になり、人々は溜池を埋め立て、水源を山奥へと追いやった。
交差点の名前や駅名の「溜池山王」と聞いても、それがかつての江戸の命の源の水源があった場所であることを知る人は、今やほとんどいないだろう。

溜池は消えても恩恵は残っている

現在、東京は利根川から1日に240万uの水を導水している。これは甲子園球場を水で一杯にしたと仮定してその4杯分の水に相当する。
いまとなっては忘れ去れた溜池ではあるが、その恩恵は今も確実に、発展した東京のなかに生きている。


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