1657年(明暦3年)、江戸の6割が焼失した明暦の大火が発生、江戸の街は焼土と化した。
そして、その火災を契機として、江戸の街は軍事都市から防災都市へと変貌する。
防火用の空き地「火除地」、埋立による土地開発、大規模な計画移住、河川を越える大きな橋、火を遮断する防火堤、広い避難用の路地「広小路」、すぐ撤去できる仮設店舗、大きな武家屋敷は建てない、土蔵・瓦・漆喰、燃えにくい材料での家作りなど、様々な工夫を凝らしていた。
いまに続く江戸の火災対策をまとめる。
明暦の大火後、幕府は今までにない防災視点の都市づくりを行った。
火除地と呼ばれる防火用の空き地を確保するため、徳川御三家の屋敷を筆頭に大名屋敷を郭外に移し、寺社も外に移転させた。
火災による延焼を防ぐため、幕府は江戸市中に火除地を設けた。
火除地は現在の運動場くらいの広さがあり、また木造建築も置かれなかったため、火災のときでもそこに避難すれば火を避けられたのだ。
明暦の大火後、に焼け跡5ヶ所を火除地にあて、以後も少しずつ増やされて享保年間には13ヶ所にも増大された。
武蔵野への町人の移住もはじまり、新田開発も行われた。
例えば、現在の三鷹市下連雀は、神田連雀町(千代田区神田須田町)で家を失った人たちの移住先としてあてがわれた。
「連雀町」の地名は、連尺(物を背負うときに用いる荷縄)を作る職人が多く住んでいたことを由来とする。
武家地や町人地を隅田川の東側にも拡げるため、新たに両国橋が架けられた。
それまで、幕府は江戸城を守る目的から、簡単に人が河川を越えられないよう、隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。
しかし、明暦の大火では橋がなく、逃げ場を失って大勢の人が亡くなったため、方針転換して架橋することにしたのだ。
元禄6年(1693)に新大橋、元禄11年(1698)に永代橋、安永3年(1774)には大川橋(現在の吾妻橋)が架けられた。
他にも、火勢を遮断する目的で新たに防火堤を築いた。
高さ約7メートルの長土手で、上部には松が植えられた。
効果的な避難経路を確保するため、「広小路」という広い街路も設けられた。
代表的な広小路には、両国橋のたもとの両国広小路、寛永寺参道の上野広小路などがある。
両国広小路には恒常的な建物を置くことが禁じられた。
しかし、すぐに撤去できる建物を置くことは認められていたので、両国広小路には仮設の見世物小屋や露店が建ち並んだ。
見世物小屋では芝居や講談などが人気を博した。
スイカ売りなどの行商人、猿回しやコマ回しなどの大道芸人も多く集まり、江戸有数の盛り場として大いに賑わった。
一方で、将軍が鷹狩りなどで通行する際は店をたたみ、本来の火除地の姿に戻ったという。
ただし、広小路も18世紀になると露店が常に置かれるようになっていった。
また、火除地の使用目的も徐々に変わっていき、幕府の薬園や馬場、小規模な露店並びが設置された。
これは防火体制の整備が成熟していったから可能となった路線変更であった。
が、1740年代には、一部を除き、娯楽利用が禁止され、ふたたび火除機能が戻された。
上野寛永寺に参詣するための参道だった上野広小路も、盛り場として発展を遂げた。
寛永寺があった「上野のお山」に対し、町家や武家屋敷が建ち並ぶ一帯は「下谷」と呼ばれたので、「下谷広小路」とも呼ばれる。
幕府は建築物にも火災の原因があるとして、規模の大きな武家屋敷を建てることを禁じた。
一方で、諸大名は上屋敷の控えとして中屋敷や下屋敷を設けた。
町中では、防火のために土蔵造、瓦葺きの屋根、漆喰で塗り籠めた塗屋造などを奨励し、町家の不燃化を目指した。
不燃材料での建築は、武家や余裕がある町家には普及したものの、庶民は相変わらずの長屋住まいだった。
それでも、台所に「火の用心」の札を貼ったり、社寺に参詣して無事息災を祈るなど、自分たちにできる防火対策を行った。
幕府は意気込んで防火対策を行ったが、江戸はますます人口が増え、むしろ密集化が進んだ。
結局、その後も頻繁に火事は発生し、明和9年(1772)には死者・行方不明者と合わせて約1万8000人に及ぶ明和の大火が起きた。
この火災は真秀という坊主による放火で、江戸の3分の1が焦土と化した。
真秀は捕縛され、火刑に処された。
文化3年(1806)に起きた文化の大火は、明暦の大火、明和の大火と並ぶ「江戸三大大火」の1つである。
出火元は芝・車町の材木座付近で、京橋や日本橋、さらには神田や浅草方面まで燃え広がった。
幕末は火事の発生回数が多かったが、これは幕府の権威低下による治安の悪化が影響したものとみられる。