江戸の発展は運河から

江戸の発展は運河から

江戸に入った徳川家康は、江戸城の築城とともに大運河の造営を進めた。
家康が最初に開削した道三堀が運搬を促し、次に開削した小名木川で塩を運び、二俣に分かれる隅田川を一本化し巨大な水堀として江戸城を守った。
のちに100万都市といわれるほどの大都市となった江戸の発展は運河からはじまった。
> 利根川東遷 > 江戸の水道 > 港湾都市として発展

徳川と大名で江戸を開発

最初期は徳川が、途中から全国の大名らが

近世江戸の都市の形成は、大まかに3つの時期に分けることができる。
第1期は家康の江戸入部から幕府が開かれるまで、第2期は大坂夏の陣まで、第3期は幕藩体制が確立した元和・寛永期である。
第1期は徳川家の自営事業だが、第2期以降は全国の諸大名を動員した天下普請であった。

家康が最初に着手した道三堀の開削

江戸城への物資輸送を向上させた道三堀

大規模な土木事業を行うにあたって、最初に取り組んだのは「道三堀」と呼ばれる舟入堀の開削だった。
道三堀は江戸城の築城とともに開削が始まっており、江戸城と江戸内海を結ぶ運河として機能した。
堀の名称は、近くに幕府の侍医である曲直瀬道三の屋敷があったのが由来とされる。※ 明治42年(1909)に埋め立てられたので、今は見ることができない

半島の根っこを開削、半島を【島】にした

家康が入部した頃の江戸には、日比谷入江の東に江戸前島という半島があり、さらにその東側の隅田川河口に江戸湊があった。
そのため、江戸前島の東岸から船で江戸城府に行くには、前島を迂回して行かなければならなかった。
そこで、前島の根元を東西に日本橋川と連結する形で水路を開削し、江戸城と江戸前島の東岸の往来を容易にしたのだ。
江戸には都市建設のための資材が次々と運ばれたが、道三堀はその運搬路として大いに役立った。

道三堀沿いに「伊勢屋」がたくさん

道三堀沿いには材木町、舟町、柳町などの町場が形成され、物資の積降ろしなどで賑わった。
家康の事績が記された『落穂集』によると、開発当初は伊勢国からの者が多く、店の多くは「伊勢屋」という暖簾を掛けていたという。
現在もその名残なのか、日本橋や人形町界隈には、「伊勢」を冠した老舗が多く見られる。

小名木川の開削(塩や食料を運んだ運河)

江東区を東西に横断する運河

道三堀のつぎに家康は、現在の隅田川と旧中川を結ぶ小名木川の開削にも取り組んだ。
現在の江東区を東西に横断する運河で、川の開削工事に携わった小名木四郎兵衛が名称の由来である。
また、小名木川の東にも新たに水路を掘り、「新川」と名付けられた。
開削前の流れは「古川」と呼ばれる。

主に、塩を運んだ小名木川

定説では、家康が行徳(現在の千葉県市川市)の塩を運ぶために開削したとされる。
行徳では戦国時代から製塩が盛んだったが、塩の生産地は限られていたので、非常に重要な場所だった。
そのため、塩を運搬するために水路を整備したとされるが、目的はそれだけではなかったと考えられる。

塩を運ぶ以外の目的もあった

この頃の河川の改修事業を勘案すると、利根川東遷事業以前の古利根川や後の江戸川など、関東内陸部と江戸を結ぶ航路の整備に主眼が置かれていたとみられる。
江戸に食料を運んだり、江戸からは下肥が農村に運ばれたりした。

潮の影響をうけない運河(水路)は運搬に便利だった

行徳〜江戸間なら海路を利用する選択肢もあるが、海は風や波の影響を受けやすい。
単に荷物を運ぶぐらいならいいが、当時の水路は軍事的な目的も兼ね備えていた。
水軍の移動や軍事物資の輸送は迅速さが求められるので、わざわざ海岸線の内側に水路を設けたと思われる。

“巨大な水堀”隅田川が江戸城をまもった

隅田川、もとは二俣に分かれて流れていた

隅田川の現在の流れも、古くからの自然のまま流れではなく、改修によって最適化された流れである。
家康が行った隅田川の改修については、あまり語られずに利根川東遷事業のみが注目されている。
しかし、家康が江戸に入部したときの隅田川は、白鬚橋の下流から二俣になっており、西側の流れが現在の川筋で、東側の流れは墨田区東向島(旧寺島)と墨田区向島(旧牛島)の境となるところを流れていた。

東側の流れを塞ぎ、隅田川を一本化

この東側の流れが隅田川の本流であったが、家康は慶長年間にこの川筋を堤で仕切り、西側一筋に瀬替えを行った。
これにより日本橋川や神田川と接続させて隅田川筋と江戸城や城下とを結ぶ舟運の利便性が向上し、さらに隅田川を介して小名木川を経て江戸川とも航路が確保されることになったのである。
この瀬替えは、近世江戸城東縁の防御線としても機能した。

家康の利根川東遷

利根川は現在の東京湾に流れ込んでいた

家康は江戸城と江戸の城下を水害から守るとともに、河川を用いた舟運の利便性を高めて江戸への物資の搬入を確保するため、治水事業を積極的に進めた。
その中でも、最も大掛かりだったのが、利根川の流れを現在の東京湾から太平洋沿岸の銚子に大きく変えた「利根川東遷事業」だ。

川筋が複雑だった利根川

利根川が大規模な水害をおこしていた

利根川は「坂東太郎」と称される関東を代表する大河で、家康入部以前の利根川は川筋が複雑だった。
それゆえに大規模な水害が何度も起こり、関東一円の人々を悩ませていた。

整備できれば「水運」と「耕地」になる

しかし、広大な氾濫原は治水によって耕地化することができ、舟運の便を確保することが可能となる。
そこで、関東郡代に任じられた伊奈忠次が中心になって、利根川の流れを東へ遷す大事業がはじまった。

最初の工事は「会の川」の締め切り

家康はまずは文禄3年(1594)、利根川が現在の埼玉県羽生市付近で二股に分流していた流れのうち、南流する会の川の締め切り工事を行った。
ただし、この事業は松平忠吉(家康の四男)が治める忍領の水害対策で、本格的な東遷事業の開始は元和7年(1621)ともいわれる。

家康没後、1621年から本格的な東遷事業

元和7年(1621)からは、利根川と渡良瀬川をつなぐ新川通の開削がはじまった。
また、権現堂川を拡幅し、新川通から権現堂川、太日川(現在の江戸川の前身)を経て江戸の内海に流れるのが利根川の本流になった。

1654年に利根川と太平洋沿岸が繋がる

さらに、利根川の水を常陸川に流し、銚子河口から太平洋に注がせるため、赤堀川(現在の茨城県古河から境町に流れる利根川の一部)の開削が行われた。
ただし、猿島台地を掘削する工事は困難を極め、承応3年(1654)にようやく開削が実現した。
これにより、北関東から太平洋沿岸を結ぶ、現在の利根川の流れが完成した。
1621年の事業開始から33年かかる大工事であった。

「江戸川」も20キロほど開削されできた

利根川は、関宿(現在の千葉県野田市)で銚子方面への利根川本流と、東京湾に注ぐ江戸川に分流する。
江戸川は寛永7年(1640)頃から開削工事を開始し、関宿から金杉に至る約20キロが開削された。
当初は元々の名前である太日川と呼ばれたが、16世紀に入ると、江戸川の名称が一般化していった。

大型船が航行できるまで拡張された

一連の工事で川幅が拡張され、江戸と常陸・下総を結ぶ航路において大型船の航行が可能になった。
銚子から江戸に行くには房総半島を迂回する必要があったが、東遷事業によって、大型船も安全な航路で移動できるようになった。

小田原城から学んだ江戸の水道

江戸、井戸を掘っても塩水が…

水道整備にとりかかる

家康入部以前の江戸は海に面した低湿地で、井戸を掘っても塩分が強く、飲料水には適していなかった。
そのため、江戸の都市建設において、水道の整備は急務であった。

小田原の日本最古の水道設備

日本で最も古い水道とされるのが、小田原に設けられた早川上水だ。
正確な年代は不明だが、小田原・北条氏の3代目・北条氏康が、小田原城下に水を引き入れるために設けたとみられる。
天文14年(1545)に小田原へ立ち寄った連歌師の紀行文に、この上水に関する記述がある。
各戸に水を引くために木製の水道管が用いられ、水は炭や砂でろ過して使われたという。

家康も上水開設に動いていた

小石川上水の誕生

家康がこの早川上水を参考にしたかどうかは定かでないが、江戸入部に先立ち、家臣の大久保藤五郎に上水開設を命じたとされる。
藤五郎は小石川の湧き水を水源とし、目白台下の流れを利用して神田方面に通水させたという。
これが小石川上水の誕生で、その後、随時拡張されて神田上水となったという。
小石川上水の詳細は不明で、流路や規模も定かでないが、この小石川上水をもとに神田上水が敷設されたというのが大方の見方である。

1629年に神田上水が通水

井の頭池などの湧き水を水源とし、神田まで通水する神田上水は、寛永6年(1629)までには完成したとみられる。
通水したことで、江戸城内だけでなく武家地や町人地にも給水されるようになった。

玉川上水、人口増加による水不足を解決

多摩川から上水を開削

神田上水は江戸の人々の暮らしを豊かにしたが、参勤交代制度の影響もあって江戸の人口は急増し、水の供給不足が懸念された。
そこで承応元年(1652)、幕府は多摩川からの上水開削を計画する。

1654年に玉川上水が通水

流域の農民である庄右衛門と清右衛門の兄弟が工事を請け負い、承応3年(1654)に「玉川上水」として完成した。
現在の多摩地方の羽村から都心の四谷に通水する全長約4キロの上水道で、四谷の大木戸近くにある四谷水番所から江戸市中に給水された。

江戸の六上水

玉川上水に続いて亀有、青山、三田、千川の4本の上水道が開削され、神田上水&玉川上水と合わせて「江戸の六上水」と呼ばれた。
ただし、掘抜井戸の普及や幕府の財政難が影響し、後発の4上水は享保7年(1722)に廃止された。

石樋や木樋のなかを水が流れる

江戸市中に水が運ばれる

江戸の水道は、高低差を利用して川のように水を流す自然流下式である。
切石を組んで漆喰でつないだ「石麺」、水に強い木材でつくった「木桶」が地下に埋め込まれ、その中を水が流れていった。
水は管を使って各町内に運ばれ、最終的には上水井戸に注がれた。
人々は井戸から水を汲み上げ、飲料水や生活用水として利用していた。
玉川上水は羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったので、工事は困難を極めたという。

遠方では「水屋」が水を売っていた

江戸市中では、桶などで水を運んで売り歩く「水屋」が繁盛していた。
上水や井戸が遠く離れていたり、塩分が多くて井戸水が飲料に適さない地域では、特に重宝された。

港湾都市として発展

多くの運河が港湾の機能まで支えた

家康が江戸入りしたとき、江戸城の東側は日比谷入江が入り組んでいて街づくりの障害になっていた。
そこで大規模な埋め立て事業を行い、新たな土地を生み出し、そして、下町の低地帯には細かく運河が巡らされた。

海の浅さを運河整備でカバー

当時、江戸には全国からさまざまな物資が海路で運ばれたが、江戸湾は遠浅で砂がたまりやすかったので、大型船は江戸城近くに接岸することができなかった。
そこで、江戸城近くまで物資を運ぶため、運河を整備して湊機能を強化する開発に着手したのである。

運河に港湾、「水都」と化した江戸

江戸には、両岸にたくさんの河岸があった京橋川、資材を搬入するための水路として掘られた紅葉川、八丁堀の造成時に整備された楓川など、かえでさまざまな運河があった。
大型船は隅田川の河口に停泊し、積み荷を小型船に積み替えた。
そして、張り巡らされた運河や外堀を通じて江戸各地に運ばれた。
なかには、人を乗せた舟を岸から人力で引き、水路をさかのぼる場所もあった。
東京都墨田・葛飾区に見られる「曳ふね舟」という地名や施設名などはその名残である。

水運で都市と地方の文化が均一化

全国から米が運ばれてくる

100万都市の江戸で消費される米の量は莫大で、全国から米が運ばれてきた。
多くの米は水上交通で運ばれ、江戸時代にはさまざまな航路が開かれた。
有名なのが、出羽国酒田から南下して下関を経て大坂・江戸に向かう「西廻り航路」と、酒田から北上して津軽海峡を経由し江戸に向かう「東廻り航路」がある。

水運が交易を支える

地方から米を運んで江戸へ向かった船は、空で帰るわけではなかった。
船を安定させる目的も含めて、江戸で衣料や工芸品、書籍などを買い入れた。
また、大坂や瀬戸内で酒や塩を買って帰る船もあった。

水運で地方と都市の文化が繋がる

水運が発達したことで、都市(江戸・大坂・京都)と地方のつながりが深くなった。
武士階級は参勤交代で江戸文化を全国に広めたが、水路の発達で、町人層でも同じような文化の広がりが見られたのである。


↑ページTOPへ