征韓論の敗北で辞職した板垣退助らは、愛国公党を結成し民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を提出。
国会を開設して国民の政治参加を求めると同時に、一握りの官僚が政治を行う体制を批判した。
これをきっかけに自由民権運動が広がっていく事になる。
しかし、政府も憲法と国会を備えた立憲政治を構想しており、民撰議院、つまり国会の必要性を認めていたのだ。
ただし、その主導権を掌握し、慎重に準備を進める必要があったのだ。
民間の急進的な運動は弾圧する姿勢が強化されていく事になる。
その一方で、政府は、立法諮問機関(りっぽうしもんきかん)である元老院と司法機関である大審院を設置し、漸次立憲体制を整えていく事を約束。
三新法、府県会によって地方の行政が整備され、地方でも政治への関心が高まっていった。
士族中心だった民権運動に、豪農や地主らも参加するようになったのだ。
全国の民権派が終結して結成された愛国社は、国会期成同盟と改称され国会開設を要求したが、却下される。
大隈重信など、国会の早期開設を求める参議もいた。
大久保利通の暗殺後、政府の中心は大蔵関係のトップである大隈と、内務関連を掌握していた伊藤博文であった。
国会開設について大隈と伊藤は対立していた。
その頃、開拓使の官営事業が藩閥関係の商社に安く払い下げられている事が明らかとなり、政府に対する批判が高まっていた。
政府は払い下げを中止し、国会開設を明治23年と約束、大隈を罷免された。
明治14年の政変と呼ばれる一連の処置により、政府は立憲政治の主導権を握る事となるが、その中心にいたのは伊藤であった。
以後、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法を模範とする事が決まった。
国会開設が約束されると、板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成する。
自由党は元士族が多く急進的で、改進党は知識層が多く、比較的穏健派であった。
同時期、政府支持の立憲帝政党も旗揚げしている。
党結成の翌年、板垣は襲撃されるものの、一命は取り留めた。
その後、政府の働きかけで板垣は渡欧した。
これらの動きは自由党の弱体化を狙ったもので、指導者を欠いた自由党員は過激な行動に走る事となる。
不況が続く農民たちの不満と結びついた事件もあり、純粋な民権運動と異なるものも少なくなかったのだ。
その後すぐ、改進党の大隈ら幹部も党を脱退し、民権運動は崩壊してしまった。
伊藤博文は渡欧してプロイセン憲法などを学び、本格的な憲法制定に取り掛かった。
内閣制度も制定され、伊藤が初代首相に就任する。
民権運動では各派が協力する大同団結運動を展開し、三大事件建白書を提出。
反政府的な気運が高まったが、政府は保安条例を公布、即日施行して600人近くを東京から追放しました。
その一方で政府は民権派の大隈や後藤象二郎を入閣させる懐柔策を取っていた。
最終的に憲法は天皇の諮問機関である枢密院(すうみついん)で審議され、発布される事となった。
内閣制度確立に伴い、天皇については内大臣や宮内大臣を置いて宮中を管轄させ、政府からは切り離された。
大日本帝国憲法はプロイセン憲法を模範として、天皇が定めて発布する欽定憲法(きんていけんぽう)であり、天皇は神聖不可侵とされた。
しかし、統治権は無制限ではなく、憲法の条文に従う必要があった。
天皇は陸海軍を統帥(とうすい)、つまり軍隊を動かす権限を持っていたが、これは陸海軍の統帥部が補佐し発動されるもので、政府や議会は介入できなかった。
統帥権はその後、軍部の拡大解釈により乱用される事となる。
憲法発布や議会開設に先立ち、政府は地方制度と諸法律の整備を行っている。
民法整備に関しては、フランス風の自由主義的な内容であった為、保守層から反対意見が出て施行が延期される事態が起こり、修正され公布された。
帝国議会が招集されるにあたり、政府は不偏不党の超然主義を宣言するが、民権派の政党が過半数を占め、政府に反対した事から、やがてこの原則は破られていく。
民党側も政治参加の為には政府に歩み寄る必要があった。
第二次伊藤内閣の頃から、自由党は政府に接近していく。
初期議会では政府の予算案と条約改正が問題とされ、衆議院の解散に追い込まれる事が度々起こる。
政府は自由党との妥協や天皇の詔勅(しょうちょく)を持ち出すなどして議会を運営していく。
戦争の主な原因は原因は他にあったものの、日清戦争へと突入する事になったのも、反政府の動きを抑える為という側面があったのだ。
国内政治が整えられていく一方、最大の外交課題である不平等条約の改正は中々進まなかった。
条約改正の為には、まず国内政治を整備し、富国強兵を実現させなければならない。
つまり平等な条約を結ぶ為には、列強から、強い国だと認められる必要があったのだ。
長州藩出身の井上馨(いのうえかおる)が執った欧化政策もその一環だったが、外国にこびて単に模倣しただけの鹿鳴館外交は政府内外から非難された。
井上の外交交渉は「ノルマントン号事件」で挫折する事になった。
1886年10月、紀伊半島沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が難破する事件が起こった。
船長以下乗組員は無事に脱出したが、23人の日本人乗客が全員水死してしまった。
当然、日本側は船長らの重刑を望んだが、治外法権の為、船長は英国の領事裁判所で裁かれ、軽い刑罰のみとなった。
この事件は条約改正の必要性を国民に改めて感じさせる事になる。
次の外相の大隈重信は、メキシコとの条約改正に成功したものの、外国人判事を任用する事をイギリスの新聞に暴露されてしまう。
憲法発布後の青木周蔵(あおきしゅうぞう)の交渉は成功するかに見えたが、大津事件(おおつじけん)の為、頓挫した。
治外法権の撤廃が実現するのは、陸奥宗光のときである。
関税自主権が回復されるのは、日清・日露戦争に勝利した後の1911年の事だ。
その翌年、年号は大正へと変わった。