1926年12月25日から1989年1月7日まで。20世紀の大半を占める。
大正の後、平成の前の時代である。
昭和は、日本の歴代元号の中で最も長く続いた元号であり、元年と64年は使用期間が共に7日間であるため実際の時間としては62年と14日となる。
昭和は第二次世界大戦での敗戦から、過酷な戦後復興など激動の時代となった。
第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。
関東大震災による傷跡がさらなる経済恐慌を生み出し、不景気の中での昭和の幕開けとなった。
昭和初期、日本経済は低迷を続け、国民の生活に深刻な打撃を与えた。
>> 昭和恐慌
政府の協調外交路線に対する軍部などからの批判は次第に高まっていく。
政府は中国に対してもこの政策を貫いていたが、国民政府(辛亥革命後の中華民国の政府)が北部に進軍すると、日本人居留民保護を名目に山東出兵を開始する。
満州の実力者で親日派の張作霖(ちょうさくりん)を利用して、満州の利権を守り、拡大しようとした。
しかし、張が協力的ではなかった為、満州に駐屯していた関東軍は極秘裏に張の乗る列車を爆破し殺害してしまう。
(当時の田中義一首相は軍法会議を開こうとするが、軍部の反対によって真相究明は拒まれた)
>> 満州事変
張作霖の子の張学良(ちょうがくりょう)が国民政府に忠誠を誓った為、満州はその勢力下となった。
政府は関税自主権を容認する等、中国との協調外交を継続する。
しかし、軍部を無視してロンドン海軍軍縮条約に調印した為、統帥権を侵すものだと軍に強く非難された。
協調外交は軍部の独走によって崩壊していく。
国民政府が台頭し、日本軍大尉が殺害される事件が起こるなど、満州の雰囲気は緊迫していた。
柳条湖(りゅうじょうこ)で満鉄の線路が爆破されると、関東軍はこれを中国側の仕業とし、南満州の都市を武力制圧した。
この出来事を満州事変という。
政府や軍参謀の一部は戦線不拡大の方針であったが、関東軍はこれを無視してしまう。
翌年、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を擁立して満州国の建国を宣言させ、政府はそれを認める。
日本世論は関東軍を支持していたのだ。
しかし、国際社会はこの満州国建国に対し日本の自作自演を疑っていた。
国際連盟はリットン調査団を派遣し満州国を調査、調査の結果、国際連盟で日本軍の撤兵が可決する。
日本はこれを不服とし、国際連盟を脱退する事となる。
この時期、暴走していたのは満州の関東軍だけではなかった。
軍部の不満は抑え難いものとなっていたのだ。
失業者の増加、農村の貧窮など、社会には閉鎖感が漂っていた。
この時期、軍部は何度もクーデターを企てており、軍部内の秘密結社桜会がクーデターを企てた三月事件などが代表。
その前年には浜口首相が狙撃されたが、犯人は桜会会員が主宰する右翼団体員だった。
満州事変が勃発する頃には、軍部へ対する国民の期待が高まっていた。
国家主義改革勢力も軍を後押しする形となり、テロ組織の血盟団が井上準之助前蔵相や、団琢磨(だんたくま)三井理事長らを暗殺する事件が起こった。
1932年5月15日、海軍の青年将校が犬養毅(いぬかいつよし)首相らを射殺した事件「五・一五事件」が起こる。
事件後、軍部は政党内閣の継続に反対し、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)が妥協人事として、穏健派の元海軍大将の斎藤真(さいとうまこと)を首相に推した。
斎藤内閣、次の岡田内閣と軍勢力が続き、軍部の発言力は次第に高まっていく。
陸軍は「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを発行する。
軍事だけではなく、政治や思想、国民生活の改革を訴えたのだ。
軍部の権力が政党を上回る寸前まで来ていたのだ。
国家主義的(国家(政府)を第一に考え、その権威や意志を第一だと考える立場の事)傾向の強まりは、共産主義や社会主義にも影響を与え、共産党からも多数が国家主義側へと転向した。
思想や言論の統制が厳しくなると、美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説が政治問題されるようになる。
この説は人間としての天皇と、国家機関としての天皇を区別し、天皇はあくまでも国の最高機関であり憲法に従って統治権を行使するという内容で、それまで広く承認されていた。
軍部などはこの学説を不敬だとして非難したのだ。
政府は国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)を出して天皇機関説を否定したが、これは明治憲法の理念を否定するものであった。
国体明徴声明の翌年、それまでにない大規模な正規軍の反乱である「二二六事件」が起こった。
50年ぶりの大雪の早朝、陸軍皇道派の青年将校たちは、1400名程の兵を率いて首相や大臣の官邸、報道機関などを襲撃した。
皇道派は天皇中心の改革を唱え、北一輝(きたいっき)の思想に影響を受けていた。
一方、これに対立していたのが、陸軍の統制強化と政府の改革を目指す統制派であった。
当初、陸軍当局は事件処理に戸惑っていたが、天皇の強い意向もり、武力鎮圧に乗り出した。
計画的な蜂起ではなかった為、反乱軍は三日後までには投降した。
軍法会議により、北一輝を含む17名に死刑判決が下され、その年の7月に殆どの刑が執行された。
軍内部の粛清を行った陸軍は、満州事変の首謀者である石原莞爾(いしはらかんじ)ら新統制派が中心となって、発信力を更に強めていく。
二二六事件の翌年、衆議院議会で軍部の横暴を批判した浜田国松議員に対して、寺内陸相は軍人侮辱と述べた。
浜田はこれに反論し、「侮辱があったなら割腹する、無ければ君が割腹しろ」と叫び議場は大混乱に陥る。
軍部は広田内閣に不満を持っており、解散を主張。
内閣総辞職後も、陸軍は後任者に反対するなどの態度を取っていた。
現況を打破する首相として、政府、国民の期待を背負って登場したのが、若い侯爵、近衛文麿(このえふみまろ)であった。
近衛首相は就任直後から難問に直面する。
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)である。
北京郊外の盧溝橋付近で発砲があり、日中両軍が衝突した事件である。
この事件に対し、政府は不拡大方針を取り、現地でも停戦協定が成立した。
しかし、陸相らは日本人の安全を守る為の出兵を強く要求する。
軍首脳部は短期間で中国を制圧出来ると考えていたのだ。
事件から四日後、政府は強硬路線を打ち出し、出兵させる。
日中両政府間で解決済みだった事件は、日中戦争開始の象徴的事件となってしまう。
そして日本は一気に進軍を開始。
ドイツ大使を通じて和平交渉が行われていたが、蒋介石(しょうかいせき)が南京を脱出すると、近衛首相はそれを敗北と考え「国民政府(中華民国)を相手とせず」と声明を出し、和平の機会を失ってしまう。
外相を和平交渉に当たらせたものの、日本軍部の不満もあり、失敗に終わる。
日中戦争が長期化の様相を見せると、政府は国家総動員体制を築いて経済などを統制する必要が出てきた。
近衛首相は「支那事変(日中戦争)中は発動しない」と約束して国家総動員法を公布したが、その一か月後には施行されてしまう。
これにより政府は様々な分野に渡って、議会の議決を経る事無く、統制を加える事が出来るようになったのだ。
第二次大戦が勃発すると、国民徴用令などにより一般国民が軍需産業に動員され、企業なども戦時経済体制への協力を迫られる。
国民の生活への規制を強まり、「贅沢は敵」という風潮が広まっていく。
1940年、首相の座を退いていた近衛文麿は新体制運動の声明を出し、第二次内閣を成立させる。
近衛は軍部を抑えて政治権力を奪回するつもりだったが、結局その構想は骨抜きにされ、指導的組織として設立されたのが大政翼賛会(たいせいよくさんかい)であった。
この組織はドイツに生まれたナチスの様な一国一党の全体主義的国民組織ではなく、諸勢力を寄せ集めた団体のようであり、総裁である首相が強力な指導力を発揮する事は出来なかった。
それでも国民を戦争に動員する為に果たした役割は大きい。
そして野党の存在を認める議会制度は消滅し、戦争に反対する意見が表に出て来ることはなくなってしまった。
太平洋戦争に突入すると経済の統制や出版の検閲などはされに強化された。
戦況の悪化に従って国民の負担は益々重くなっていった。
日中戦争が続く中、ヨーロッパ情勢も緊迫していった。
ドイツがオーストリアやチェコを併合したのだ。
英仏との対立を深めたドイツは、はるか東アジアの日本との関係強化のためソ連を仮想敵国とした日独伊防共協定を、英仏も対象とした軍事同盟に発展させようと働き掛けて来る。
日本軍はノモンハン事件などソ連と武力衝突を起こし大きな痛手を負っていた。
その為、陸軍はドイツとの提携に賛成するが、海軍や外務省は英米を敵に回してしまう事を恐れ、反対する。
当時の平沼内閣はこの問題で閣内でも対立していたが、独ソ不可侵条約調印の報せが届く。
ドイツが共通の敵国である筈のソ連と手を結んだ事で、政府の外交は方向性を失い、平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」としての言葉を残して、総辞職した。
ドイツのポーランド侵攻で第二次大戦が始まると、政府は当初不介入の立場でドイツとの軍事同盟に消極的であった。
しかし、ドイツがソ連に対し快進撃を続けると、陸軍は同盟を強く主張、内閣に圧力を掛けた。
枢密院議長を辞任した近衛は、次期陸相候補の東条英機(とうじょうひでき)らと会談し第二次内閣を組閣。
日独伊三国同盟を締結し、大政翼賛会を発足させる。
政府は北守南進政策を取って、仏領インドシナに進駐を開始、さらに日ソ中立条約を締結する。
同時に近衛内閣は、悪化していた日米関係を調整しようと交渉を始める。
しかし、日本の南進などで、米国の対日感情は極めて悪化しており、もはや、米国との関係改善は不可能であった。
日米交渉は続けられていたものの、米国は日本への石油の全面輸出禁止などの強硬姿勢に打って出た。
米英の他、中国、オランダによる対日経済制裁包囲網はABCD包囲網と呼ばれ、日本は経済的に完全に孤立してしまう。
特に石油が無くなれば軍艦も飛行機も動かせなくなり、戦争する力を無くす事を意味する。
南進政策が摂られたのは大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)の確立という名目の他に、石油の確保という目的が在ったのだ。
近衛首相は開戦派の松岡洋右(まつおかようすけ)外相を除いて第三次内閣を組閣したものの、ABCD包囲網は軍部の態度を決定的にした。
陸相の東条は近衛と対立する。
米国の態度軟化の為には、近衛は中国の日本軍を撤兵するしかないと判断、近衛はそれを東条に求めるが、東条はそれを拒否した。
そして、内閣を崩壊させるゾルゲ事件が起こる。
ソ連のスパイ、ゾルゲに情報を提供していたのは、近衛のブレーンである昭和研究会のメンバーである尾崎秀実(おざきほつみ)であった。
近衛内閣は総辞職、そして東条内閣が成立した。
日米開戦への最後の決断を後押ししたのは、日米交渉の相手であるハル国務長官の満州事変以来の全ての日本の行動を否定した覚書であった。
このハルノートとは、明治以降の日本の大陸における一切の権益(満州や朝鮮、台湾、インドシナ半島など)を全部放棄して、日本の領土を日本列島のみとせよ、という事であった。
当然、日本にはとても飲める要求ではなかったのだ。
政府はこれを米国からの最後通牒と判断、日米開戦に踏み切る事になる。
1941年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに第二次世界大戦へ突入する。
日本軍は現在のフィリピンのマニラ、シンガポール、ビルマ(ミャンマー)などに勢力を広げ、南進政策を実行する。
この日本軍の快進撃に国内は沸き返り、東条内閣に対する国民の支持は高まる一方であった。
東条内閣は翼賛選挙(よくさんせんきょ)を実施し、当選者の八割は政府系団体の推薦者となった。
日本政府は大東亜共栄圏確立の為、日本の勢力下にあった中国の南京政府、満州国、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府の代表者を東京に集めて大東亜会議を開催した。
しかし、実質的な議論はなく、これらの国でも日本に対する反攻の動き、反日感情の芽生えが起こっていた。
大東亜共同宣言採択の瞬間
起立者左からバー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(中華民国(南京)国民政府)、東条英機(日本)、ワンワイタヤーコーン(タイ)、ラウレル(フィリピン)
右端のボース(自由インド仮政府)は陪席参加のため着席
国民は依然として日本の連戦連勝の歓喜の中にいたが、実際は半年ほどで、既に戦況は悪化していた。
ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いでの敗北などの事実を大本営は隠した為、国民には知らされていなかったのだ。
敗北が初めて報じられたのは、アッツ島の日本軍全滅であった。
学徒出陣や疎開が行われるようになった1944年、サイパンが陥落。
東条内閣は退陣し小磯内閣が成立した。
その後も、日本の敗退は続き、遂に米軍の日本本土空襲が本格化する。
大本営政府連絡会議に変わって設置された最高戦争指導会議は、それでも本土決戦を決定した。
米軍が沖縄に上陸すると、鈴木内閣が成立する。
ポツダム宣言が発表されるが、内閣はこれを無視。
そして1945年8月6日に広島、9日長崎に原爆が投下されてしまった。
原爆の投下を受けて、ようやく大本営は終戦へと動き出すが、ポツダム宣言受託を決定したのは、ソ連参戦の後だった。
このソ連参戦を受け、北方領土は現在もロシアに実効支配されている。
この状況に至っても陸相などは戦争継続を主張する。
最終的に天皇が裁断するという形で「終戦」を迎える事となった。
日本の兵士、国民の犠牲者は
250万人以上だったと推定される。