倭の五王

倭の五王とは、いつの天皇なのか?

讃・珍・済・興・武、5人の倭国王

天皇との比定は定まっていない

「倭の五王」とは、5世紀に倭国から中国に外交使節を派遣した5人の王である。
5世紀、当時の日本の大和王権は中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、倭国王に冊封された。
当時の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、(さん)、(ちん)、(せい)、(こう)、(ぶ)といわれる五人の倭王(倭の五王)が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されている。
これらの王を、日本側の史料である「古事記」による天皇と照らし合わせると、讃=応神or仁徳or履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略の各天皇ではないかと推測される。
最初の二人、讃と珍は事実であるか疑わしい推測なのだが、済・興・武の三人に関しては、現在、確実視されている。
>> 倭の五王といわれる7人の天皇

倭の五王の系譜、日中比較

【倭の五王の系譜、日中比較】宋書において五王の全員は血縁関係にない。日本側ではこの時代の大王(天皇)は血縁関係(世襲)にある筈で、明確に矛盾している。宋書の記述が正しいなら、この時点ではまだ大王家は世襲できてなかったことになる

武・雄略天皇を最期に中国と再び関係断絶

最後の武の雄略天皇が、敵対する有力豪族たちを滅ぼし、天皇の権力を強化させていた。
そして、武を最後に、宋への遣使は派遣されていない。

当時(5世紀)の情勢

邪馬台国以来、中国への遣使は途絶えていた

3世紀半ばに邪馬台国による中国(魏)との外交が行われていたが、その後、倭国から中国への派遣は途絶えた。

倭国は朝鮮半島とずっと交流を続けていた

中国の正史から倭国との交流が途絶えた間も倭国は朝鮮半島と交流を深めていた。
"倭の五王≠ェ登場した5世紀には、ヤマト政権の国内統治や東アジアの国際情勢など、政治的課題が山積していた。

記紀より古い時代の『宋書』に記された倭の五王

朝鮮半島では高句麗、百済、新羅、新羅、そして小国の集まりである加耶が争っていた。
当時の倭国は古墳時代であり、ヤマト政権を中心とした各地の豪族の連合体が形成されていた。

日本史の“空白の四世紀”

ヤマト政権(王権)の成立前後は歴史が空白になっている

当時の倭国では、文字による記録が定着していなかったため、歴史を明らかにするためには考古学的成果か中国・朝鮮の史料に頼らざるを得ない。
『古事記』『日本書紀』の記述は物語的な性質が強く、そこから史実をくみ取るのは慎重でなければならない。
そのため3世紀後半から4世紀後半にかけて、ヤマト政権が出現し発展する時期の動向はきわめて不明瞭で、この時期を“空白の4世紀”と呼ぶのはそのためである。

空白の四世紀が明けて、倭の五王の時代

そして、421年から479年頃まで倭国の外交使節が中国(宋)にやって来るようになったことが、中国の歴史書である『宋書』に記録されている。
先に記したのように、派遣したのは、讃・珍・済・興・武という5人の倭国の王であった。 一方、当時の倭国は考古学的にみると巨大前方後円墳が築かれていた時代であり、その被葬者がヤマト政権の盟主であったと考えられている。
さらに『古事記』『日本書紀』には、そのころの天皇として仁徳天皇から雄略天皇までの六代の天皇がいたとされる。

『宋書』と『記紀』が食い違う

しかし、『宋書』に記させる倭の五王が誰だったのか、『記紀』(古事記と日本書紀)に記される天皇と、いまいち合致しない点が在るのだ。

倭の五王は中国の歴史書『宋書』に記される

『宋書』とは

5世紀の倭国について同時期に記録した文献が『宋書』。
『宋書』は中国の南朝・宋の歴史を永明年間(483〜493)に梁の沈約がまとめた書物。
『宋書』は沈約が488年にいったん完成させ、その後も編集が続けられて十数年後に一部追加された。
ただし倭国に関係する箇所はいずれも488年に完成した部分である。

讃珍、済興武、に血縁が記される

初めに倭讃という王が派遣し、次に弟の珍、その5年後に倭済、次に息子の興、そして興の弟の武が記されている。
しかし、讃と珍、済・興・武の間はそれぞれ血縁関係がはっきり記されているが、珍と済の間にはそれがない。
『宋書』には倭の5人の王に関する記載がある。
「讃死して弟珍立つ」と明記されていたり、また、「済死す。世子(太子)興が朝貢した」という記載もある。
さらに、「興死して弟立つ」と記されている。

『梁書』には讃珍が親子とある

『梁書』では珍を彌としたうえで親子であったとするが、史料的信頼性が高くない。
その血筋はつながるものであったのか疑問視する考えも強い。
いずれにせよ、『記紀』『宋書』『梁書』の書物すべてに食い違いがみられる。

『宋書』は信頼性が高い史料

『宋書』は倭五王の時代当時の史料

『宋書』が成立したのは、倭の五王の最後の遣使である479年の直後である488年であり、8世紀初頭に記された『記紀』に比べ極めてリアルタイムな情報ということになる。
また、その内容は宋の外交記録をもとにしたものであり、いいかげんなものではない。
『宋書』に記される倭の五王の情報は信頼性が高いといえる。

『記紀』より『宋書』の方が信頼できる

『記紀』は政治的な史料であり、意図的な改変の可能性

従来の研究では『記紀』の天皇の名や継承順をもとにして、倭の五王を当てはめて考えることが多かった。
しかし、そこには明確な基準がなく恣意的であった。
特に、天皇の諡(死後の贈り名)との比較は、在命中の実名(諱)に基づかなければ意味がなく、その実名も必ずしも判明していない。
編纂時の改変が想定される『記紀』との強引な照合は効果的とはいえない。
むしろ『宋書』の記述をもとに考えるべきであり、記紀とのくい違いはまず記紀の記述を疑う必要があるだろう。

稲荷山鉄剣など、物的証拠が最も信頼できる史料

倭の五王は、479年の派遣を最後に再び中国との外交を止めている。
中国の歴史書から倭国の記録は消え、その後のヤマト政権の動向をうかがう史料は『記紀』を除いてごく僅かになる。
稲荷山鉄剣などは貴重な史料であるといえる。

『記紀』は政治的な史料

継体天皇の即位を正統化する為に改変された可能性

『記紀』では仁徳天皇の血筋は、民を苦しめた悪逆の王である武烈天皇の報いで途絶え、近江あるいは越前からやってきた継体天皇が入り婿のかたちで即位したとされる。
しかし、武烈天皇がやったとされる悪行とやらに関する記述は、中国の史料をそのまま転用されており、信頼性がきわめて低い。
武烈は継体天皇の登場を必然化するために作り出された架空の天皇であるとする見方も根強い。

倭の五王といわれる7人の天皇

讃(さん) 第15代 応神天皇

神話的要素を含む天皇(大王)だが、実在説も根強く、「讃」の候補の一人。
仁徳天皇と同一人物との説もある。
>> 第15代応神天皇

第16代 仁徳天皇(讃の候補2人目)

仁徳天皇(257〜399年?)は応神天皇の第四皇子で、「民の竈(かまど)」の故事で知られる人物であり、仁徳天皇の治世は仁政であったといわれる。
古事記では「聖皇」、日本書記では「聖帝」と称され、理想的な君主として位置づけられている。
倭の五王のうち「讃」(珍とも)なのではないかといわれる人物だ。
仮に仁徳が讃であれば、実年代は五世紀初頭の天皇であり、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は、世界最大の墓として有名。

弟に代わり、天皇に即位する

応神天皇は生前、仁徳の異母弟である「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」を皇太子としていた。
しかし、応神の崩御後、菟道稚郎子は、自分より年長で、仁孝(にんこう)であった兄の仁徳に即位を勧めている。
その間、長男の大山守皇子(おおやまもりのみこ)が反乱を起こしたが、菟道稚郎子によって鎮圧された。
その後、菟道稚郎子が自害してしまい、仁徳が即位する事になったのだ。

末子相続から長子相続へ

この即位の一件は、儒教的な「長幼の序(ちょうようのじょ)」に繋がるとして、古くから儒学者に賞賛されている。
また、末子相続から年長者への相続(長子相続)へと転換する契機とも考えられている。
※国家が巨大化した事で、政務も難しくなり、年長者の優位性が増していたとの意見もある。

都は難波に

都は前代に続き、難波に置かれている。
大和から河内への移行の背景には、大陸との外交に至便な地が求められた為と思われる。

治水・灌漑事業に取り組む

即位後、河内平野の治水・灌漑に取り組み、茨田堤(まむたのつつみ)の築堤、難波堀江の開削を行った。
日本初の大規模土木工事だったという評価もある。
耕地開発も進み、河内で「四万余頃」の田を得たという。※四万余頃とは広さの単位
仁徳の時代に全国的な治水・水田開発が行われた公算もある。

民の竈 民を思いやる優しい天皇

ある日、仁徳が山に登って四方を眺めた所、民家から炊飯の煙が立ち上がっていない事に気づいた。
大規模な工事により民が工事により民が疲弊していた事を暗示する話である。
そこで仁徳天皇は民の困窮を察し、3年間の間、租税を免じる事にした。
その間は高津宮が雨漏りをしても、修理すらしなかったという。

そして3年後、再び周囲を見渡すと、家々に煙が立ち上がっていた。
この時に仁徳が詠んだとされる歌がある。
「高き屋に、のぼりて見れば、けむり立つ、民のかまどは、にぎはひにけり」
これが「民の竈」の逸話である(この歌は平安時代に作られたもの)。

人間臭い一面も

仁徳には人間臭い一面もあったという。
何人もの女性を妻としたことで、皇后 磐乃媛命(いわのひめのみこと)の嫉妬に悩まされ、家でした皇后を迎えに行った話がある。
従来の天皇と異なり、人間としての性格が強い天皇像が現れるのも、仁徳以降の天皇の特徴である。

第17代 履中天皇(讃の候補3人目)

履中天皇(りちゅう:?〜405年)は仁徳天皇の第一皇子。
仁徳天皇と共に、倭の五王の「讃」候補の一人である。
概ね5世紀前半頃に在位していたと考えられる。

一人の女性をめぐり、弟と争う

仁徳天皇後、天皇像は先代たちの様な神憑りな存在ではなく、人間的なものに代わり、王族同士の権力争いが目立つようになる。
仁徳の崩御後、履中は住吉仲皇子(すみのえなかのみこ)と皇位をめぐっての争いを繰り広げた。
事の発端は、黒媛(くろひめ)という女性をめぐるものであった。

住吉仲皇子の挙兵

日本書記によると、即位の前、履中は黒媛と婚礼を上げる為、使いとして住吉仲皇子を送った。
ところが黒媛に魅せられた住吉仲皇子は、履中の名を騙って黒媛を襲ってしまう。
これを知った履中は激怒し、住吉仲皇子も履中を倒す為に挙兵した。

戦いに勝利した後、即位

履中は難波から逃れ、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を祀る石上神宮(奈良県天理市)に逃れた。※神功は武器庫だったといわれる。
そこで、履中は「多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(後の反正天皇)」に命じ、住吉仲皇子を殺害させた。
その後、神武ゆかりの地である磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)(奈良県桜井市)で即位する。
再び大和に都を移した意味合いとしては、大陸との関係安定、皇祖を頼んだ権威の回復などの説があるが、詳細は不明である。

珍(ちん) 第18代 反正天皇

反正天皇(はんぜい:?〜410年)は仁徳天皇の第三皇子。
履中天皇の同母弟で、允恭天皇の同母兄。倭の五王の「珍」の有力候補である。
履中天皇の即位に協力し、反乱を起こした兄、住吉仲皇子を側近に殺害させた。
この事情があってか、履中に皇位を譲られており、日本史上初の兄弟継承である。
この先例が後世に与えた影響は大きく、以後の皇位継承にも大きな変化が表れていく。

平穏無事な時代の天皇

都は丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)(大阪府松原市)に置かれた。
日本書記によると、反正天皇の治世は「五穀みのり人民にぎわいて天下太平なり」と記すのみで、特に実績はないようだ。
平穏無事な時代であった事が伺えるものの、実在を危ぶむ意見もある。

容姿端麗だった?

御名の瑞歯別尊(みずはわけのみこと)とは、生まれた時から既に歯が生えており、その歯並びがあまりに美しかった為、一枚の葉の様に見えた事に由来するとされる。
さらに身長が9尺5寸半、なんと3mもあったとされる。
この記述の真偽はともかく、特に身体的特徴が伝えられている為、容姿端麗であったのかもしれない。

宋の文帝に、称号を期待するも・・・

「宋書」によれば、438年、宋の文帝のときに倭の国王に任じられた「珍」という王があった。
珍は南朝鮮と日本の軍事を統督する者であることを承認して欲しいと申し出たが、退けられてしまう。
代わりに「倭国王 安東将軍(中国の首都から東の地方を安んじる将軍)」という曖昧な称号を与えられている。
この申し出には当時の朝鮮諸国を威圧しようという目論見が伺える。

梁書

「梁書(りょうしょ)」で「珍」は「弥」と記述されている。
これが瑞歯別尊の「ミ」にあたるという考えが有力である。

済(せい) 第19代 允恭天皇

允恭天皇(いんぎょう:?〜453年)は、仁徳天皇の第四皇子で、履中・反正天皇の弟である。
倭の五王の「済」にあたる天皇である。※雄略天皇の父である為、「武」ともいわれる
反正天皇が皇嗣を決めないままに崩御してしまい、群臣の度々の要請を受けて即位した。
当初は、即位を拒み続けたが、後に皇后となる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の懇願を受けたものという。
都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)(奈良県明日香村)で、初めて飛鳥に都を置いた天皇である。

盟神探湯という裁判

その実績として、最も特筆されるのが「盟神探湯(くかたち)」というもので、神明裁判(しんめいさいばん:神様の裁定を尊重する裁判)である。
神に誓ってから釜の熱湯に手を入れ、嘘をつく者は火傷を負うという仕組みである。

名前に関する嘘を暴く

允恭が即位した頃、豪族の間では、氏姓に関する虚偽が横行していた。
姓は豪族の職能で、政治的地位を表すものである。
わざと高い姓を名乗る者や、わざと気に召さない姓を失う者が多く居た為、争いの火種となっていたのだ。
これを憂いた允恭は、飛鳥の甘樫丘(あまかしのおか)にて盟神探湯を行い、姓氏の乱れを正そうとした。
目論み通り、嘘をつく者は火傷をし、恐れを成して告白する者もおり、氏姓の乱れはなくなったといわれる。
これらの説は、現在有力視はされておらず、天皇の権威を示す為の、創作である可能性が高い。

先代の珍より出世した王

允恭が比定されている五王の「済」は、451年に宋朝の文帝より倭国王 安東将軍に加え、かつて「珍」が成しえなかった倭と百済を除く、南朝鮮5カ国(計6カ国)の諸軍事を加号されている。

興(こう) 第20代 安康天皇

安康天皇(あんこう:?〜456年)は允恭天皇の第二皇子で、雄略天皇の同母兄。
倭の五王の「興」にあたるとされる。
日本書記のよれば、その治世は僅か3年であり、実績は殆ど記されていない。
御名は穴穂尊(あなほのみこと)だ。

兄に代わり即位

允恭天皇の代、皇太子は第一皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)だった。
しかし、皇太子は、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と禁断の恋に陥った為、人望を失ってしまったのだ。
軽大娘皇女は罪を問われ、伊予へ流されたとされる。
允恭の崩御後、群臣は皆、安康を推戴(すいたい)し、木梨軽皇子は自害に追い込まれた。
なお、古事記のよると、木梨軽皇子は伊予へ流され、後を追ってきた軽大娘皇女と共に、伊予で自害したとされる。
即位した安康は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)(奈良県天理市)に都を置いた。

配下の者の企てにより、叔父を殺害してしまう

その後、安康は弟の大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)の為、叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ:仁徳天皇の皇子)の妹、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を妃として迎えようとした。
大草香皇子は妹の婚姻を承諾し、婚姻の印として、宝冠・押木珠縵(おしきのたまかつら)を献上しようとする。
しかし、使者の根使主が、印を詐取しよう企ててしまう。
さらに根使主は、それを隠すために大草香皇子は拒否したと虚偽の報告をした。 これによって、大草香皇子は安康によって殺されてしまう。
その後、安康は自身の行いを悔いたのか、大草香皇子の后の中磯皇女(なかしのひめみこ:履中天皇皇女)を皇后にした。

大草香皇子の子供の恨みを買ってしまう

叔父を殺害して妻を奪うという行為が祟り、安康天皇は中磯皇女の連れ子だった眉輪王(まよわのおおきみ)に恨まれ、刺殺される事になってしまう。
ただし、この伝承では、眉輪王は7歳だったとされ、細かい史実性には疑問の声がある。

宋書のよる記述

「宋書」では、462年に宋朝の孝武帝が済の世子の「興」を安東将軍倭国王としている。
この「興」という文字が穴穂皇子の「穂」の音を表したものとされている。

武(ぶ) 第21代 雄略天皇

雄略天皇(ゆうりゃく:418〜479年)は、允恭天皇の第五皇子、安康天皇の同母弟である。
古代の天皇の中でも、気性の荒い乱暴な専制君主として知られる。
些細な罪で臣下を処刑する事も多く、日本書記では「朝に見ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され」とその恐怖政治ぶりを記し、「天下そしりて大悪天皇ともうす」とある。

暗殺事件を利用し、一気に権力を握る

即位の契機は眉輪王の安康天皇暗殺であった。
大王の座を狙う雄略は、事件に乗じて兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を殺害し、さらに大臣の葛城円邸(かつらぎのつぶら)に逃げた兄の境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王を3人まとめて焼き殺した。
また、皇位継承のライバルだった従妹の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と、その弟を欺いて射殺した。

悪辣さが目立つが、事績は大きい

競争相手を全て倒して即位した後、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)(奈良県桜井市)に都を置いた。
その後、雄略天皇の支配に反抗し、吉備の吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)、伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)ら、地方豪族の反乱が起こったが、全て鎮圧された。
また、重臣の合議制(大臣・大連制)や財政機構の整備(三蔵の分立)を整えた。
雄略期は、大王権力と大和政権の勢力が一段と拡大強化された時期であり、その事績は画期的なものとして評価されている。

宋書

「宋書」の478〜502年の記録にある、倭王「武」として比定される。
また、稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」を、雄略天皇とする説が多い。
この事は、関東にまで雄略の勢力が達していた事を意味する。

倭の五王 年表

西暦中国王朝倭王出来事
413年東晋東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』夷蛮伝)
425年 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』夷蛮伝)
430年 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』夷蛮伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』夷蛮伝)
443年 宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』夷蛮伝)
451年 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』夷蛮伝)
460年 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。
462年 3月、宋・孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)
478年 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)

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