仁徳天皇

仁徳天皇

仁徳天皇(にんとくてんのう:神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日)。
民を労わる善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。
『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)に比定する説があるが、確定していない。

仁徳天皇

仁徳天皇

聖帝と称えられた天皇

弟の死を受け、自身が天皇に即位

仁徳天皇は応神天皇の第4皇子で、オオササギノミコト(大鷦鷯尊)といった。
応神天皇はウジノワキイラツコ(宇遅能和紀郎子)を後継として選んだが、応神天皇の崩御後、ウジノワキイラツコが皇位継承を辞退し問題が生じた。
ウジノワキイラツコとオオササギは、互いに相手を天皇に相応しいと言って、共に辞退したのである。
両者が謙譲の美徳※を示して譲らなかった為、3年間の空位が続いた。
※両者とも相手に譲る事を美しいと考えた
これを憂慮したしたウジノワキイラツコが自死、結局は兄のオオササギが即位し、仁徳天皇となった。

古事記と日本書紀の記述違い

この経緯に関して『古事記』では譲り合っている間にウジノワキイラツコが夭折し、やむなくオオササギが即位したと記述している。
一方『日本書紀』では、自分では兄の考えを変えられないと、ウジノワキイラツコがオオササギの即位を促す為に自殺したと伝えている。

自ら質素に暮らし民を労る天皇

茅葺の屋根で暮らしていた

即位した仁徳天皇は難波高津宮(なにわたかつのみや)に都を移すが、宮殿は極めて質素なもので何の装飾もなく、茅葺の屋根も先端を切り揃えていなかったという。
これは出来るだけ軽減しようとの思いからだった。

民の竈

あるとき仁徳天皇は、高殿から都を望んだところ、民の家々の竈(かまど)から煙が上がっていない事で、人々の困窮を知った。
その為、3年間の租税免除を決めたのだ。
その仁政が功を奉し、天候にも恵まれて再び民の家々から煙りが立ち上がった。
これを見た仁徳天皇は安堵し、大いに喜んだという。

大規模な治水工事

また、大阪平野の開発に力を注ぎ、治水工事などを行って豊かな農地を造り出した。
とくに茨田の堤の建設は有名である。
この堤はたびたび決壊を繰り返していたが、あるとき天皇は神のお告げを受ける。
武蔵国強頸(こわくび)と河内国の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を生贄として川の神に捧げれば、必ずや堤は完成するというモノだった。 そこで二人を召して生贄に捧げる事にした。
強頸は泣き悲しみながら川に沈み生贄となったが、衫子はヒョウタンを2つ抱えて入水、ヒョウタンを沈めて浮かばなければ真の神だが、浮かべば偽の神であると言って川に入って神意を占った。
その結果、ヒョウタンは沈んだが、衫子は無事に生還を果たした。
このような大規模な治水工事などの結果、作柄も安定し、民からも大いに慕われたという。

女好きだった?

そんな仁徳天皇には6人の子供がいたが、うち3人が皇位を継承し、それぞれ履中天皇、反正天皇、允恭天皇となった。
また、仁政を敷いた仁徳天皇には数々の艶聞も伝えられている。
仁徳天皇22年、天皇はヤタノワキイラツメ(八田若郎女:八田皇女)を見初め、后として召し入れようとした。
これに対して嫉妬深い皇后、イワノヒメノミコト(石之比売命)が猛反対し、天皇の説得に頑として応じない。
そこで天皇は皇后が紀伊国に出掛けた間にヤタノワキイラツメを宮中に召し入れた。
それを知った皇后は激怒し、御所には帰らずそのまま葛城の方に居を移したという。
天皇のかえって来るようにとの説得にもなかなか応じなかった。
天皇は自らイワノヒメの下まで赴き、和歌を詠んだり懸命に起源をとったという。

嫉妬深い過激な一面も

イワノヒメの死後、仁徳天皇はヤタノワキイラツメを正式に皇后としたが、今度は皇后の妹にあたる女鳥(メドリ)を見初め、異母弟の速総別(はやぶさわけ)を遣わせて仲を取り持つように指示。
しかし、皇女は事もあろうに速総別と結ばれてしまう。
しかも、「鷦鷯(ささぎ)」よりも「隼(はやぶさ)」の方が優れているという歌を詠んだことで、天皇の逆鱗に触れ、遂に二人は天皇の送った刺客に殺されてしまう。

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)

大仙陵古墳(仁徳天皇陵)
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。

仁徳の陵墓

仁政を敷き、多彩な顔を持つ仁徳天皇は83歳で崩御。
その遺体は百舌鳥原中陵に葬られたという。
これが大阪府堺市にある百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵である。
ただし、これが本当に仁徳天皇陵かは不明である。


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