葛城氏(かつらぎうじ:かずらきうじ)は初期ヤマト王権で大王に並ぶ権勢を誇った5世紀最大の豪族。奈良盆地の葛城地方を本拠とし、大王家に匹敵する実力を有した。葛城の祖・襲津彦は武内宿禰の子である。政略結婚により権力を得たが、21代雄略天皇との政争に敗れ、葛城氏は滅ぼされた。
奈良盆地の南西部は葛城地方と呼ばれ、奈良県と大阪府の境を南北に走る葛城山脈がある。この一帯を本拠とした葛城氏は、4世紀末から5世紀後半にかけて大王家に匹敵する実力を有していたといわれる。
考古学・文化人類学の鳥越憲三郎氏は、「初代・神武から9代・開化までは葛城氏が支配した」という「葛城王朝説」を唱えている。2代・綏靖から開化に至るまでの8代は『古事記』『日本書紀』に具体的な治世が記されておらず、「欠史八代」と呼ばれる。そのため、このような説が展開され「10代・崇神から大王の統治が始まった」としている。ただし、現在はあまり支持されていない説である。
葛城氏の祖とされる葛城襲津彦(そつひこ)は武内宿禰の子で、『日本書紀』にはさまざまな活躍譚がある。神功皇后5年、襲津彦は人質を一時帰国させるために新羅へ向かうが、途中でだまされ、人質に逃げられてしまった。激怒した襲津彦は使者を焼き殺し、漢人らを捕虜として連れ帰って4つの邑(桑原・佐縻・高宮・忍海)に住まわせた。
捕虜たちは、大陸や半島の先進的な技術や文化を伝えたとみられる。奈良県御所市の南郷遺跡群では高度な技術が必要な生産工房跡、渡来人集団の住居跡などが検出されており、この地が葛城地方の中心拠点だったと考えられる。
葛城地方では古墳も数多く築かれ、最も規模が大きいのは墳丘長が約238メートルの宮山古墳である。全国18位の規模を誇る前方後円墳で、襲津彦の墓と推定される。
ヤマト王権の外交を担当した襲津彦は、その縁から渡来人や大陸の文物を掌握して権勢の基盤にした。
また、16代・仁徳天皇に嫁いだ娘の磐之媛は3代の天皇(17代・履中、18代・反正、19代・允恭)をもうけ、大王家の外戚の地位を得た。仁徳から24代・仁賢までの9代のうち、20代・安康をのぞく8代が葛城氏の女性を后妃か母としている。
葛城氏は大王家に並ぶ実力を有していたが、それゆえに対立が生じ、徐々に勢力が削がれていく。
416年に大きな地震が発生したとき、襲津彦の孫の玉田宿禰は反正天皇の殯(もがり:葬送儀礼1つ)の役目を怠り、葛城に籠もっていた。また、允恭天皇の使者を殺害するなどの不行もあり、誅殺された(『日本書紀』)。
葛城氏に決定的なダメージを与えたのは、皇位継承のライバルを次々と誅した21代・雄略天皇であった。
456年、雄略の兄である安康天皇を殺害した眉輪王は、葛城円(つぶら)の邸宅に逃げ込んだ。雄略に邸宅を包囲された円は、娘の韓媛と「葛城宅七区」を差し出して許しを乞うたが、認められず焼き殺された。これにより葛城氏は滅亡する。
円の墓とされているのが、掖上鑵子塚古墳である。この古墳は、御所市のはずれにあり、まるで隠されたかのように造営されている。
その後、渡来人を活用し、大王家と姻戚関係を築いた蘇我氏が台頭するが、栄華を誇った葛城氏の末裔とされる人物はほとんど姿を見せていない。
そのため、蘇我氏が葛城氏の後継で、政治力や経済力をそのまま引き継いだという見方もある。