武内宿禰(たけのうちのすくね)は、8代孝元天皇の孫にあたり、景行天皇から成務、仲哀、応神、仁徳と12代から16代の五代にわたる天皇に仕えたとされる古代朝廷の伝説的な重臣だ。
その在職期間を単純計算すると、実に200年以上となり、360歳以上の長寿を保ったと伝えられている。
子孫も繁栄し、蘇我氏、平群氏、紀氏、巨勢氏、葛城氏など武内宿禰を共通の祖と仰いだ氏族は実に28を数える。
この中に古代朝廷に重きを成した氏族が多く名を連ねている事からも、その重要性が覗える。
初めて大臣に任じられたのは成務天皇の時代と伝えられるが、これが日本の歴史上最初の大臣だとされ、戦前にはお札の肖像にも選ばれるほど国民になじみ深い人物であった。
仕えた五代の天皇の中でも、武内宿禰は特に応神天皇と、その母の神功皇后との所縁が深い。
神功皇后が夫である仲哀天皇急死を受けて、新羅遠征軍を率いる事になった時には、武内宿禰が神功皇后の補佐役となって遠征の勝利に貢献している。
遠征に前後して、仲哀天皇急死の混乱を狙って香坂、忍熊の二人の皇子が皇后への反乱を企てた事件に際しては、武内宿禰が頭脳戦を駆使して相手を翻弄し、反乱を収束させている。
また、神功皇后が行った祭祀に加わって神のお告げを得る手助けをしたり、新たな田を開墾する時に邪魔になった大岩を神への祈願で砕き割ったりと、武内宿禰には超人的な伝説が多く残っている。
彼が仕えた神功皇后と同様に、武内宿禰二も神秘的な束門を持っていたようだ。
『因幡国風土記』の逸文によると、武内宿禰は因幡国への下向中に宇部の亀金岡という場所に立ち寄り、そこで履物だけを残して忽然と姿を消してしまったのが、最後だという。
そこは現在の宇部神社がある場所で、神社の境内には武内宿禰が残した履物が置いてったという双履石が残されている。
超人的な長寿を保ち、生涯現役を貫いたという伝説から、武内宿禰は長寿とボケ封じの神とされるようになった。
神社に祀られるときには神功皇后、応神天皇と一緒になる事が多いのだが、奈良時代の創建と伝えられる佐賀県の武雄神社もその一例で、武内宿禰と応神天皇、神功皇后、それに仲哀天皇と、武内宿禰の父・武雄心命の五柱を祭神として五社大明神とも呼ばれている。
この神社の境内には推定樹齢3000年の大楠があり、武内宿禰と共に長寿のご神徳があるとも云われる。
武内宿禰が300年以上の長寿を保ったというのは流石に現実的ではないように感じられるが、実は「武内宿禰」というのは、代々の天皇の側近が名乗った世襲の官職だったのではないかという説が有力だ。
また武内宿禰の子孫だという多くの氏族が、一族内の祖先の事績を武内宿禰という一人の人物にまとめていった為、数百年に渡って活躍を続ける超人的な忠臣像が生み出されたのかも知れない。