日本書紀全巻一覧

日本書紀全巻の一覧

奈良時代、元明天皇の養老4年(720年)に撰上された『日本書紀』は全三十巻からなる。
編年体で書かれた中国の『漢紀』や『後漢紀』が三十巻である事に倣い同じ巻数にしたのではないかとも云われる。
別巻として系図一巻が在ったとされるが(続日本紀にてその存在が確認できる)、こちらは現存していない。
『日本書紀』全三十巻の題目と簡単な説明をまとめる。

日本書紀を簡単にまとめる

卷第一 神代 上
神々が誕生し、その神が地上に降りて来る物語。
天地開闢の三神出現から始まり、神世七代、イザナギ・イザナギの聖婚と国生み、三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)の誕生へと続く。
スサノオはアマテラスと誓約をして子を生むが、スサノオが乱交を働いたのでアマテラスが天岩戸に籠ってしまい、スサノオは根国に追放される。
途中、出雲でヤマタノオロチを退治し、クシナダヒメを妻として大己貴神(オオナムチノカミ:オオクニヌシ)を設け、根国へ行く。
※根国とは死者の霊が行くと考えられた地下の世界。
卷第二 神代 下
アマテラスの孫ニニギから、神武天皇に繋がるまでの物語。
アマテラスの孫ニニギを葦原中国の主とする為にフツヌシとタケミカヅチが出雲に遣わせれ、オオクニヌシに国譲りを迫る。
これを受けてニニギは日向の高千穂峰に降臨し、笠沙の岬でコノハナノサクヤヒメ(鹿葦津姫とも)と結ばれ、3人の子を産む。
ニニギの子の一人である“山幸”は海神の助力を得て兄の“海幸”を服従させ、ワタツミ(海神)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)を妻として迎える。
山幸と豊玉姫の間に子のウガヤフキアエズが生まれ、またウガヤフキアエズは叔母の玉依姫を妃として、神日本磐余彦天皇(後の神武天皇)ら四人の子をもうけた。
卷第三 神武天皇
神武天皇が九州から大和を平定し、天皇に即位する
初代天皇・神武天皇(神日本磐余彦天皇)の事績を記すが、東征譚を記した即位前紀が大部分を占める。
都にふさわしい土地を東方に求めて日向(九州南部)を発ち、瀬戸内海を経て河内から大和に入ろうとするが、土豪・長髄彦(ナガスネヒコ)に阻まれ、紀伊半島を迂回して熊野から上陸。
道中で兄たちを失い、神の毒気を受けて失神したりもするが、八咫烏に導かれて北上し、天佑神助(天や神の助け)を得て敵を倒し、遂に大和を平定した。
橿原宮で即位し、事代主神(コトシロヌシ)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)を皇后とする。
76年の治世後、127歳で崩御した。
卷第四巻 綏靖〜開化
二代から九代天皇までを早足に記述。
第二代・綏靖から第九代・開化に至る天皇紀で、あわせて483年に及ぶ記事だが、皇統譜の記述が連綿と続き、事績に関する記述は殆どなく「欠史八代」とも云われる。
ただし二代・綏靖の即位前紀は記述されている。
神武崩御後、神武の第一子・手研耳命(タギシミミノミコト)が皇位を簒奪しようとしたが、第二子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と第三子・神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)がこれを阻み、怖気づいた第二子に代わって庶兄を射殺した第三子が二代・綏靖天皇に即位した。
卷第五 崇神天皇
天皇が疫病と動乱を収め、統治者としての資格を得る
御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の事績を記す。
疫病の流行を憂いた崇峻は、7代・孝霊天皇の皇女(倭迹迹日百襲姫命)の神託に従うなどして篤く神祇祭祀を行い、国に平安が戻った。
その後、崇神は遠国にも王化を及ぼそうと四道将軍を派遣。
派遣の直前に8代・孝元の皇子の武埴安彦命(タケハニヤスビコ)が謀反を起こすが、まもなく鎮圧された。
人民を調べて課役を課し、天下が平安になり、「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」初めて国を統治した天皇と称えられた。
出雲神宝の献上、任那の朝貢なども王化の一例として記されている。
卷第六 垂仁天皇
朝鮮との関係構築、天皇が謀反を鎮圧
活目入彦五十狭茅天皇(11代・垂仁天皇)の事績を記す。
任那と新羅の抗争、新羅王子・天日槍(アメノヒボコ)の渡来伝説に続けて、皇后・狭穂姫の同母兄・狭穂彦王の謀反を記す。
謀反は天皇軍に鎮圧され、稲城に立て籠もった狭穂彦王は妹ともに自害。
卷第七 景行天皇/成務天皇
地方が背けば軍を派遣する
大足彦忍代別天皇(景行天皇)と稚足彦天皇(成務天皇)の事績を記す。
大半は景行紀で、さらにヤマトタケルの事績が多い。
景行は朝貢を拒んだ熊襲の討伐のため征西に向かい、平定すると九州を巡幸。
しかし、再び熊襲が背いた為、皇子ヤマトタケルを九州に遣わして熊襲を平定させた。
次に蝦夷が背いたのでヤマトタケルは東征に向かうが、平定を終えた途端、伊勢で病没してしまう。
景行はヤマトタケルの死を悼み、東国を巡幸して彼の足跡をしのんだ。
成務紀は国郡に造長を県邑に稲置を設置した事などを簡潔に記すのみ。
卷第八 仲哀天皇
神に逆らう事は許されない
足仲彦天皇(仲哀天皇)の事績を記す。
仲哀天皇(ヤマトタケルの子)の事績。熊襲がまた背いた為、天皇は神功皇后とともに西征に向かう。
筑紫の橿日宮で、神憑りした皇后から「新羅を服従させよ」という神託を得るも、これを疑ったため、突如崩御する。
卷第九 神功皇后
女王卑弥呼??
仲哀天皇没後、摂生を務めた気長足姫尊(神功皇后)の一代記。
皇后は神託に従って新羅に遠征し、新羅のみならず百済・高麗(高句麗)にも朝貢を約束させた。
凱旋後、筑紫で皇子(のちの応神)を出産し、大和に帰ろうとするが、 忍熊王(オシクマノミコ:応神の異母兄)の反乱に遭遇。
しかし皇后は武内宿禰などと共にこれを制し、大和に入った。
百済は朝貢を続けて日本と親交を結んだが、新羅は反抗的な姿勢を示した為、皇后は再征を指示。
39年条に『魏志』倭人伝が引かれ、皇后が卑弥呼であったと匂わせる。
卷第十 応神天皇
渡来人の技術が国造りを支える
誉田天皇(応神天皇)の事績を記す。
朝鮮からの技術者・知識人の渡来、武内宿禰と弟の対決、日向の髪長媛(カミナガヒメ)と大鷦鷯尊(オオサギキノミコト:応神の皇子)の結婚、妃兄媛の帰省を迫った天皇の吉備行幸、菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の立太子などが記されている。
渡来人関係の記事が多く、渡来文化を背景に、この時代に道や池の整備など、国家的な土木工事の推進が図られた事が示されている。
卷第十一 仁徳天皇
血を流す皇統争い、貧困と免税
大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の事績を記す。
先帝崩御後、皇太子・菟道稚郎子と大鷦鷯尊(仁徳天皇)のが皇位を譲り合う中、大山守皇子が皇位簒奪を狙って争乱を起こすも、大山守皇子は討たれ、菟道稚郎子が自害した為、大鷦鷯尊(仁徳天皇)のが即位。
難波宮を営んだ天皇は民の貧困に責任を感じ、課役を三年間免除した。
他に、池堤の構築、天皇と嫉妬深い皇后・磐之媛の不和、隼別皇子と雌鳥皇女の謀反、新羅・蝦夷との紛争などが記されている。
卷第十二 履中天皇/反正天皇
諸国に書記官を置き、地方統治を強化
去来穂別天皇(履中天皇)と瑞歯別天皇(反正天皇)の事績を記す。
先帝崩御後、住吉仲皇子(履中の同母弟)が反乱を起こし、去来穂別(履中)の即位を拒んだが、同母弟の瑞歯別皇子(反正)を遣わして住吉仲皇子を討った後に履中が即位、初めて諸国に国史(ふみひと:令制前に諸国に置かれた書記官)が置いた。
後にイザナギの祟りによって皇妃が亡くなってしまった。
反正天皇に関しては諱の由来と后妃・皇子女・官居の記載のみ。
卷第十三 允恭天皇/安康天皇
皇子らの人間的な争い
雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)と穴穂天皇(安康天皇)の事績を記す。
允恭は重病に罹った為に即位を辞退するが妃の忍坂大中姫の懇願を承けて即位。
新羅から来朝した医者によって快癒し、盟神探湯(くかたち:正邪を判断する呪術的な裁判)を行って氏姓を正した。
皇太子・木梨軽皇子は同母妹の軽大娘皇女と通じた為に人望を失い、允恭の崩御後に穴穂皇子(後の安康天皇)と戦い敗れ自決。
しかし、即位した安康天皇は冤罪で殺害してしまった大草香皇子の子の眉輪王に暗殺される。
卷第十四 雄略天皇
皇位継承争いは常に血が流れる
大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の事績を記す。
先帝(安康)暗殺後、雄略は眉輪王や兄たち、市辺押磐皇子らを殺して即位し「大悪の天皇」と呼ばれるも、葛城山でヒトコトヌシ(一言主神:大和の葛城山の神)と並んで狩りをし「有徳の天皇」と称賛もされる。
朝鮮関係の記事が多く、百済の軍君の来朝、新羅征討の失敗、百済救援、高麗征討、渡来人・秦氏の分散などが記されている。
卷第十五 清寧天皇/顕宗天皇/仁賢天皇
天皇に子が生まれず、系譜を遡って皇族を連れて来る
白髪武広国押稚日本根子(清寧天皇)と弘計天皇(顕宗天皇)と億計天皇(仁賢天皇)の事績を記す。
先帝崩御後、星川皇子が謀反を起こすが、清寧がこれを制して即位。
天皇には子がなかったが、播磨で発見された市辺押磐皇子の子である億計王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
続く顕宗紀では、億計王・弘計王兄弟が発見されて王宮に迎えられ、弟の弘計王が先に即位して顕宗天皇となった経緯が記される。
顕宗は父を殺した雄略天皇の墓を壊して復讐しようとしたが、億計王に諫止められる。
顕宗崩御後、億計王が即位して仁賢天皇となる。
卷第十六 武烈天皇
悪逆だったと云われる天皇
小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)の事績を記す。
即位前は大臣の平群真鳥が国政の実権を握り、真鳥の子・鮪に歌垣で敗れるが、大伴金村と謀って鮪と真鳥を討つ。
即位後は悪行・残虐行為を繰り返し、人民に恐れられたという。
百済でも末多王が暴政を執っていたが、武寧王が即位し、日本に朝貢を行うようになったという。
卷第十七 継体天皇
またも系譜を遡って天皇に即位
男大迹天皇(継体天皇)の事績を記す。
武烈に継嗣がなかったため、応神天皇の五世孫の男大迹王(おほどのおおきみ:継体)が越前から迎えられて即位し、仁賢天皇の皇女を皇后とした。
しかし、大和入りに20年を要し、この間に任那四県を百済に割譲し、その見返りに五経博士(儒教の基本経典の五経を説く学者)が貢上された。
大和入り後、九州の磐井が新羅と結んで九州北部で反乱を起こし、これを鎮圧するも、任那に覇権された近江毛野は任那復興に失敗し、召還途中に対馬で病没した。
卷第十八 安閑天皇/宣化天皇
大和の地方統治が拡大、地方も政治を大和に依存しだす
広国押武金日天皇(安閑天皇)と武小広国押盾天皇(宣化天皇)の事績を記す。
安閑天皇は蘇我稲目を大臣とし、諸国に多くの屯倉(大和王権の大王家の直営農地)を設置した。
東国の武蔵では国造の地位を巡って争乱が起こり、朝廷がこれを裁断した。
続く宣化天皇は筑紫の那津(博多)に宮家を建て、諸国の屯倉の穀物をそこに集め、非常時の備えとした。
新羅に侵攻される任那に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を派遣し、百済を救援した。
卷第十九 欽明天皇
仏教公伝、朝鮮での日本の影響力が低下
天国排開広庭天皇(欽明天皇)の事績を記す。
朝鮮半島では新羅の攻勢で任那が弱体化し、日本は百済に任那復興を再三依頼するが進展せず、むしろ高麗軍が朝鮮南部に進軍して来たため、百済は日本に支援を要請。
日本は援軍を送り、その見返りとして百済の聖明王は日本に仏教を伝えた。
しかし、仏教受容を巡っては朝廷内で廃仏派(物部氏)と崇仏派(蘇我氏)が対立し、禍根を遺す。
聖明王は新羅との戦いで戦死し、任那は滅亡した。
卷第二十 敏達天皇
疫病の流行と仏教弾圧
渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)の事績を記す。
高麗から贈られた国書は鳥の羽に書かれていて朝廷の史官らには読み解けなかったが、船氏(渡来人系の氏族)の祖先・王辰爾が解読、天皇らは驚いたという。
天皇は任那復興のため百済官人の日羅を招こうとしたが、日羅は百済側によって謀殺される。
蘇我馬子が宮殿を造営し、仏教が広まり始めるが、疫病流行が仏法の為とされた為、物部守屋が仏像を難波の堀江に放棄し、廃仏が行われた。
卷第二十一 用明天皇/崇峻天皇
歴史上初の天皇暗殺
橘豊日天皇(用明天皇)と泊瀬部天皇(崇峻天皇)の事績を記す。
用明天皇即位の翌年、穴穂部皇子(舒明天皇の皇子)が敏達天皇の寵臣の三輪逆を物部守屋に殺させる事件が起き、敏達の皇后(後の推古)と蘇我馬子は穴穂部皇子を恨むようになった。
病にかかった用明は群臣に仏法帰依を詔するが、馬子と守屋が対立。
用明崩御後、馬子は穴穂部皇子を殺害し、守屋も討って物部氏を滅ぼす。
泊瀬部皇子(穴穂部の弟)が即位して崇峻天皇となると、馬子は法興寺(飛鳥寺)を創建。
崇峻は任那復興の兵を九州に進めたが、その間に馬子の配下の者によって暗殺される。
卷第二十二 推古天皇
摂政・聖徳太子
豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)の事績を記す。
崇峻の暗殺後、敏達の皇后が推古天皇として即位、日本初の女帝となった。
用明の皇子・厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子摂政、蘇我馬子を大臣として内政を改革し、仏法興隆が図られ、冠位十二階・憲法十七条が定められ、遣隋使を送って中国外交も進められた。
厩戸皇子と馬子は『天皇記』と『国記』を編纂。
新羅征討と任那復興も試みられた。
卷第二十三 舒明天皇
遣唐使が派遣、百済から王子を預かる
長足日広額天皇(舒明天皇)の事績を記す。
先帝崩御後、皇位継承を巡って山背大兄王(厩戸皇子の子)派と田村皇子(敏達の孫)派が対立。
田村皇子を推す蘇我蝦夷が山背大兄王を推す境部摩理勢を討滅し、田村皇子が即位して舒明天皇となり、飛鳥岡本宮に遷都。
対外関係では第一回遣唐使が派遣され、唐の高表仁が送使として来日。
また百済から王子・扶余豊璋(百済最後の王・義慈王の王子)が人質として送られて来た。
卷第二十四 皇極天皇
聖徳太子の血筋が滅び、滅ぼした蘇我も滅ぶ
天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の事績を記す。
皇極天皇は舒明の皇后で、中大兄皇子(のちの天智天皇)と大海人皇子(のちの天武天皇)の母。
蘇我蝦夷・入鹿父子が専横を極め、入鹿は山背大兄王を滅ぼす。
危機感を抱いた中大兄皇子は、中臣鎌足とともに皇極天皇の面前で入鹿を討ち、続けて蝦夷も討つ。
皇極は在位四年で同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位した。
朝鮮半島では百済・高麗で政変が起こり、東アジア情勢が緊張し始める。
卷第二十五 孝徳天皇
大化の改新など改革が進む裏で、天皇や皇子の対立も…
天万豊日天皇(孝徳天皇)の事績を記す。
軽皇子は当初は即位を固辞するが、古人大兄皇子(舒明の皇子)が出家した為、やむなく即位。
大化の年号を定めて新政権を発足させ、難波長柄豊碕宮に遷都、改新の詔を宣す。
古人大兄皇子の謀反と誅殺、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の冤罪による自殺など、粛清も続く。
政権内では孝徳と中大兄が次第に不和となり、中大兄らは孝徳を残して飛鳥に移り、孝徳は難波宮で病没した。
卷第二十六 斉明天皇
先々代の天皇が再び即位、朝鮮で百済が滅亡
天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)の事績を記す。
先帝崩御後、皇極天皇が飛鳥板蓋宮で再び即位して斉明天皇となる。
後飛鳥岡本宮・両槻宮・狂心渠(運河)の造営など大規模な土木工事を盛んに行った貯め、朝廷内に内政への不満が生じ、有間皇子(孝徳の子)が謀反を企むが事前に発覚、皇子は捕らえられ処刑された。
百済が唐・新羅の連合軍に攻められて滅亡し、遺臣たちが日本に救援を要請、斉明は自ら西征に発つが、九州の朝倉宮で崩御。
卷第二十七
白村江の戦いで唐・新羅に大敗、国内も防衛強化
天命開別天皇(天智天皇)の事績を記す。
母・斉明が崩御すると中大兄皇子は皇太子のまま即位せずに政務を執った。(称制)
百済から人質として来日していた豊璋を百済王として帰国させ、救援軍も送り込むが白村江の戦いで日本の遠征軍は唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は壊滅。
中大兄皇子は国内の防衛体制を固め、都を近江大津宮に遷し、称制7年を経て天智天皇として即位した。
長子の大友皇子を太政大臣に任じ、病臥すると同母弟・大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は固辞し、出家して吉野に入った。
卷第二十八 天武天皇 上
壬申の乱、皇子同士の皇位を巡る戦乱
天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の即位前紀と元年紀からなる。
吉野に入った大海人皇子、天智の崩御後、大友皇子方の近江朝廷の不穏な動きから自身への討伐を察知、挙兵を決意。
ウノノサララ(のちの持統天皇)や草壁皇子らを従えて東国へ発ち、約一カ月間、各地で近江朝廷側との戦闘が繰り広げられた。
そして大海人軍が勝利し、大友皇子は自害、大海人は飛鳥に入った。
卷第二十九 天武天皇 下
新たな『歴史書』の編纂に着手
天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の即位後の事績を記す。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇二年(673年)に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となり、正妃ウノノサララを皇后とした。
皇族中心の政治を行いつつ、律令制の整備に取り込み、帝紀・上古の諸事の編纂を命じ(のちに『日本書紀』となる)、八色の姓や新・冠位制度の制定など、国政改革を行った。
対外的には、新羅と親交を結び、唐とは距離を置いた。
吉野で皇后と六皇子を集めて盟約を結び、草壁皇子が後継者に指定された。
皇后が病気になると薬師寺の建立を発揮した。
卷第三十 持統天皇
大和朝廷の権限強化、藤原京に遷都
高天原広野姫天皇(持統天皇)の事績を記す。
天武崩御後、皇后が即位式を挙げずに政務を執った。(称制)
2年2カ月続いた天武の殯の期間に大津皇子(天武の第3子、母は天智の皇女・大田皇女)の謀反が発覚、大津皇子は処刑された。
しかし所生の皇太子・草壁皇子が薨去。
内政では飛鳥浄御原令が施行されて律令制に基づく中央集権国家の基盤固めが行われた。
持統天皇4年にようやく即位式を挙げ、8年に藤原京に遷都。
11年8月1日の孫の軽皇子(草壁皇子の子、文武天皇)への譲位の記事をもって『日本書紀』は終わりとなる。
『日本書紀』冒頭

『日本書紀』冒頭


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