蘇我氏

蘇我氏 飛鳥時代の官僚一族

蘇我氏は古墳時代末期から飛鳥時代において、大和政権(朝廷)内で権勢を誇った有力豪族・氏族。
代々「大臣」を輩出し、次期天皇を擁立するなど、朝廷内部で天皇に次ぐほどの力を有していた。
物部氏や聖徳太子の血族などの政敵を次々滅ぼすが、乙巳の変で蘇我入鹿蝦夷の父子が殺害され、蘇我本宗家は滅んでしまった。

蘇我氏の祖は、武内宿禰

蘇我氏の祖は、12〜16代の5代の大王(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)に大臣として仕えた武内宿禰とされる。
武内宿禰は8代・孝元天皇の3世孫※だったとされ、大王家(天皇家)の末裔ということになる。
『古事記』では、武内(建内)宿禰の子である蘇我石川宿禰が蘇我氏の初代にあたる。
※学術的には8代孝元天皇は実在したとは考えられていない為、蘇我氏のルーツに関しても「天皇に所縁ある」という程度である

蘇我氏発祥の地、4つの説

大和国高市郡曽我

蘇我氏発祥の地とされるのが大和国高市郡曽我で、現在は宗我坐宗我都比古神社(奈良県橿原氏)が鎮座している。
33代・推古天皇の時代に蘇我馬子が社殿を造営し、祖先の武内宿禰や蘇我石川宿禰を祀ったと伝えられている。

河内国石川郡

一方で、河内国石川郡が出自の地という説もある。
これは『日本三代実録』の記事で、石川木村が「我が先祖の石川宿禰は河内国石川で生まれた」と述べているのを根拠としている。 ただし、この説は蘇我氏が石川氏に改姓してからの主張で、自家を正統化させるために創作された可能性が高い。

大和国葛城郡

さらに『日本書紀』で蘇我馬子が「葛城は我が一族の生まれ故郷である」と言って推古天皇に葛城の拝領を願い出たことから、大和国葛城郡が蘇我氏出自の地ではないかという説もある。
葛城は大王家の外戚として権勢を振るった葛城氏の本拠で、馬子は自らを葛城氏の末裔と名乗ることで、蘇我氏の権勢の正統性を示そうとしたのかもしれない。

朝鮮半島発祥という説もあり

蘇我氏に「韓子」「高麗」の名がある

『蘇我石川系図』では、石川宿禰の以降に満智―韓子―高麗―稲目と続いている。
韓国の娘と日本人の間に生まれた子という意味の「韓子」高句麗の「高麗」など、朝鮮半島由来の名前があることから、蘇我氏のルーツを朝鮮半島に求める説もある。
また、満智も百済の高官である木満致と名前の読みが通じていることから、同一物だったとする意見があるが、それを裏付けるのは非常に難しい。

渡来系の氏族は出自を隠さなかった

ヤマト王権は服属する豪族に「姓」を与えたが、蘇我氏は渡来系氏族には通常与えられない「臣」の姓を称している。
また、当時の渡来系氏族は自らの系譜を隠すようなことはせず、渡来後も大陸時代の姓を堂々と用いていた。 こうした点から、蘇我氏の先祖が渡来人だった可能性は低い。
ただ、蘇我氏が朝鮮半島からの渡来人と関わりが深かったのは間違いないだろう。

乙巳の変の後も蘇我は滅ばず

入鹿襲撃に蘇我氏も参加していた

乙巳の変で蘇我本家の蝦夷と入鹿は死んだが、それで蘇我氏自体が滅びたわけではない。
入鹿襲撃には蘇我倉山田石川麻呂も参加し、大化の改新を行った政権では石川麻呂も右大臣に任じられた。

受け継がれた蘇我氏の血脈

蘇我氏の婚姻政策は乙巳の変後も行われ、赤兄は娘を中大兄皇子(38代・天智天皇)と弟の大海人皇子(40代・天武天皇)に嫁がせている。
天武天皇の皇后で後に即位した41代・持統天皇は、石川麻呂の孫にあたる。

しかし、衰退していった

石川麻呂は謀反の疑いをかけられて自害したが、弟の赤兄が中大兄皇子に重用された。
しかし、壬申の乱で大友皇子側に属し敗れて失脚する。
その後は徐々に衰退するが、蘇我連子の娘・娼子が藤原不比等に嫁ぎ、藤原摂関家にも蘇我氏の血脈が受け継がれた。

蘇我氏に所縁のある豪族

石川氏
壬申の乱で衰退した蘇我氏が、40代・天武天皇の代に石川姓を称した。
石川年足は藤原仲麻呂の側近で、弟の豊成は中納言まで昇進した。
平安時代は下級貴族となり、三位以上の官人を輩出しなくなった。
9世紀には石川木村が宗岳姓に改姓し、後に宗岡に変化している。
高向氏
蘇我氏と同じ武内宿禰を祖とする氏族で、姓は臣。
本拠である河内国錦部郡高向が氏名の由来である。
高向国押は蘇我氏の側近で、乙巳の変で蘇我入鹿が殺された後も戦おうとした。
しかし、巨勢徳陀の説得を受けて投降した。
子の麻呂は従三位中納言に昇進した。
小治田氏
武内宿禰を祖とする氏族で、姓は臣。
大和国高市郡小なめ治田(小墾田)を本拠とし『新撰姓氏録』では蘇我稲目の後裔とされる。
奈良市東部では、従四位下まで昇進した小治田安麻呂の火葬墓が発見されている。
また、小治田宅持は文献上に残る初代の信濃守である。
桜井氏
蘇我稲目の後裔氏族で、本拠地は河内国石川郡桜井。
『日本書紀』では、桜井和慈古が山背大兄王の使者として蘇我蝦夷のもとへ遣わされている。
稲目の娘が29代・欽明天皇との間に桜井皇子をもうけており、この頃に蘇我氏と桜井の地に繋がりが出来たと考えられる。

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