物部氏はニギハヤヒ(邇芸速日)という神を祖とする氏族で、本拠地は大和国山辺郡、河内国渋川郡とされる。
『古事記』によると、ニギハヤヒはナガスネヒコ(長髄彦)の妹であるトミヤビメを妻とし、物部氏や穂積氏、采女氏の祖とされるウマシマジ(宇摩志麻遅)が生まれたとされる。
ニギハヤヒは天皇家の祖先であるニニギよりも先に降臨した天孫ともされる。
物部氏は蘇我氏に敗れて没落したが、もとは古代最大の豪族で、初期ヤマト王権を牽引した氏族である。
大伴氏と共に軍事面で活躍し、鉄器や兵器の製造・管理を主に管掌していた。
また、祭祀にも携わっていたとされる。
物部の「モノ」は、武士(もののふ)や兵(つはもの)に由来するという説、精霊などの「魂(もの)」が由来という説がある。
「部」は被支配集団という意味で使われていた和語の「トモ」を、漢語に当てたものといわれる。
物部氏は百済との関わりが深く、物部系の人物が百済王朝内でも重用された。
物部氏が神宝を管理した石上神宮(奈良県天理市)には、百済から贈られた「七支刀」が祀られている。
日本最古の神社の1つで、古くからヤマト王権の武器収蔵庫としての役割を担ってきた。
石上神宮に近接する布留遺跡(奈良県天理市)は物部氏の拠点集落の1つとされ、祭祀や軍事との関わりを示す史料が数多く出土している。
布留川の北の遺構からは大量のガラス製品と玉類が検出されており、遺跡内に大規模な工房があったことが確実視されている。
また、刀剣の柄や靴などの木製品に加え、鉄製品を作った鍛冶工房や、鉄製品の製作過程で出た残滓も見つかっている。
これらの発見から、物部氏が優れた先進性と軍事的性格を有していた事が覗える。
21代雄略天皇の代に物部目が大連に任じられ、以後はこの地位を継承していく。
6世紀前半には物部麁鹿火が登場し、大伴金村と共に26代継体天皇の擁立に貢献した。
さらに、九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の反乱を鎮圧し、軍事氏族の真骨頂を見せつけた。
6世紀半ばに活躍した物部尾輿は任那4県を百済に割譲した大伴金村を糾弾。
失脚に追い込み、大伴氏を引きずり下ろした。
大伴氏を没落させた物部氏であったが、新たなライバルとして蘇我氏が立ちはだかり、蘇我氏と物部氏の時代に突入した。
蘇我氏は自氏の娘を次々と后妃に送り込んだが、物部氏は大王家との姻戚関係がほとんどない。
27代安閑や天皇の妃に宅媛という娘が入ったのが、数少ない例である。
尾輿の子である守屋は仏教の布教を巡って蘇我馬子との対立、本拠の河内で味方を募った。
これに対し、馬子は泊瀬部皇子や厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍勢を動員し、守屋の館に攻め入った。
守屋は配下であった迹見赤檮(トミノイチイ)という舎人に射殺され、物部氏は没落。
しかし、後に、大友皇子(天智天皇の皇子)に最後まで付き従った物部麻呂が出世し、石上氏に改姓して復権を果たした。
「物部氏」は地方にも広く分布しており「物部」の地名がある地域も数多くある。
『扶桑略記』『陸奥話記』には、陸奥の地方官吏として物部長頼という人物が登場している。