弥生時代の社会の大きな特徴の一つとして「環濠集落」が上げられる。
環濠集落は水田稲作とともに大陸から伝来した集落構造で、外敵や害獣、ときには洪水・水害などの自然災害から集落を守る為に造られた。
また、ムラの集団意識を高める為にも周囲に濠を張り巡らせたと考えられている。
環濠は集落によって違いがあり、何重にも堀を巡らせた大規模な環濠集落もあった。
その環濠の内部には集落の人々が暮らす住居はもちろん、人々が行き交う市場、祭祀を行う宗教目的の大型の建物、米を保存しておく高床式倉庫、金属器・青銅器を作る工人の工房、遺跡によっては食料を貯蔵しておく貯蔵穴などもあった。
保管庫は食料だけでなく、田畑を耕す為に共同で使う農耕具を入れておく倉庫もあったと考えられる。
墓(方形周溝墓など)は生活区域とは離れた場所に設置されていた。
環濠はただの平地を人力で全て穴を掘っていたわけではなく、河川や地形を利用しながら環濠を作っていた。
環濠の堀は断面がX字状に深く掘られていたが、これは人間や動物が簡単には濠を越えられない為の工夫であった。
環濠は自然の河道と繋がっている事が多く、洪水対策や用水路の機能も兼ねていた。
集落の付近に水田に水を引く為の井堰(ダム)などが造られたりもしていた。
環濠集落の「かんごう」には「環濠」と「環壕」の二つの表記がある。
これは、文字にヒントがあるが、堀に水が巡らせてある場合は「濠」と書き、逆に、堀に水が入っていない空堀の場合は「壕」と書く。
環濠造りは当時としてはかなりの大掛かりな土木工事であった。
当然、今のような重機など有った筈もなく、集落の人々が総出で、木製の鍬などを使って手作業・人力で掘ったと考えられる。
もちろん、元々の自然の地形を利用してもいただろう。
水田稲作や土木工事などは多くの人々が協力しなければ行えない。
こうした集団を動かした指導者もいた筈で、その指導者が後の時代に大王や豪族になっていったのだろう。
環濠集落などの弥生時代の集落は、住居の周りを木の柵と土塁で取り囲み、更にその外がを環濠で張り巡らせていた。
環濠の外側には「逆茂木(さかもぎ)」という枝付きの木や「乱杭(らんぐい)」をくまなく埋め込んで、敵の襲撃に備えていた。
環濠は現在でいう“国境”でもあったのだ。
弥生時代では“支配者”と“支配される人々”という主従関係(上下関係)・身分社会(貧富の差)が形成されていった。
水田稲作を営む過程で既に指導者(リーダー)が存在していた筈で、更に環濠集落を造り、社会が形成されていき、指導者は「王」となっていった。
王にとって「自分の城(環濠集落)」は大切なモノであり、より集落を大きく強くしたいと願っただろう。
その為には「飢え」から集落を守る為に田を耕し、時には隣のムラを襲って食料や土地を奪い、力を蓄えていった。
また、逆に略奪される事がないように環濠を強固に強く造る必要もあった。
環濠集落の「王」たちは対外的な力だけではなく、集落内(ムラの中)での支配力も一層強めていった。
中世以降の城郭は「外からは入り難いが、中からは出易い」様に造られていたが、弥生時代の環濠は少し違って「外からも入り難いが、中からも出難い」構造になっていた。(弥生時代の環濠集落は壕の外側に塀があり、つまり、集落の内側に壕があった)
つまり、環濠集落は収容所の様になっていたわけだ。
中国の歴史書である『魏志倭人伝』には弥生時代の日本の事が記されてあるが、それによれば、当時の日本には既に税金のようなモノがあったそうだ。
当然その税とはそれなりに重いモノであったと考えられ、故に、集落から脱走する者もいたかも知れない。
だから、収容所の様に簡単には出られない様になっていたのだろう。
集落内で農耕をし作物を育て、内部に市場もあり、そして税制もあった。
こうしてより大きくて強いムラを求めた「王」たちが各地で生まれ、次第に「クニ(国)」と呼ばれる勢力へと進化していった。