弥生時代の宗教・祀り

弥生時代の宗教・祀り

天候は人の努力でどうにもならない

弥生時代の人々は、自ら食料を作り出す生活を取っており、春耕・秋収をもって年紀となし始めていた。
米作りは狩りや漁労に比べると、日々の行動の危険性は少なくなっていたが、毎年の気象条件や土地条件により、極端に収穫量が左右されていた。
一年単位で見れば、共同体の仲間や親族集団全体が食糧不足になる危険性を常に抱えていたのだ。
その年が、豊作になるかどうかは、数年も田んぼを耕せば、季節ごとに体感出来ただろう。
稲作のサイクルを通じ、農業作の工夫や改善等は本人たちの努力によって、解決できる。
しかし、天候の問題だけは、運に託すしかなかったのだ。

「祀り(マツリ)」によって、豊作を祈った

豊作をもたらす為に、弥生時代の人々は、全身全霊で祈りを捧げる事を、始めたと思われる。
そして、ただ祈るだけの様な静的な行為に対して、動的で積極的で、さらに集団的な試みでもって日常の生活の中に大きな節目を拵えたのだろう。
それが祀り(マツリ)である。

祀りによって、時間と国(集団)という概念が生まれた?

祀りは、豊作を祈る為のモノだっただろうが、それ以外の側面もあったかもしれない。
例えば、弥生時代には日付も無ければ、当然、カレンダーなんて便利な物も無かった。
農耕には、一年を通じて、適切な期間に的確な作業を行う必要がある。
そこで、的確なタイミングで祀りを行う事で、農耕と祀りを関連付け、一年という周期を集団で共有したのだろう。
また、祀りにおける儀式の詳細は、当然、集団ごとに差異があっただろう。
祀りによる信仰の「形」が、集団の団結を一層強め、やがて「国(クニ)」という単位に変化していったかもしれない。

絵画にみる、弥生時代の祀り

弥生時代の祀りに関して、当然ながら文字による記録は残っていない。
遺物だけでは復元は困難であるが、発掘された土器や木製品、一部青銅器などに描かれた絵によって、想像する事は可能だ。
弥生時代の遺物に描かれた絵は、かなり限定されたものであるが、その登場順によって、その時代に重視したものが分かる。
一番多いものは鹿で、次いで建物人物・物・鳥・竜・船・魚・・・と、続く。

建物・鹿・人物の絵画が非常に多い

弥生時代の絵画で、人や動物の絵が単体として描かれているモノが多く、そこから、描いた人の意図を考察するのは、非常に難しい。
ただし、稀に、複数の画題が組み合わされているモノもある。
代表的な例が奈良県唐子・鍵遺跡と、兵庫県養久山・前地遺跡の土器絵画群である。
建物と複数の鹿人物であり、人物は両手を挙げたポーズを取っている。
建物・鹿・人物ともに、弥生時代に多く描かれていたモノであり、人物が両手を挙げているという行為は、祀りを思わせる。
なお、建物と鹿の2者を描いたモノも多く発見されており、当時の人々にとって、「鹿」は非常に重要な存在であった可能性が高い。
しかし、鹿がどのように重要であったかは、全く分からないのが実情である。

葬儀・死者の祀り

弥生時代の遺跡からは人の墓が見つかっており、墓がある以上、死者を弔う葬式も、祀りの一種として行われていただろう。
その棺の中や周辺からは、様々な装飾品副葬品供献品などが見つかっている。
こういった墓の様子は、埋葬された後の姿であり、周辺から見つかったモノは、死者を弔う儀式で使われていた可能性がある。

墓にみる、弥生時代の葬儀

大阪市長原遺跡の土坑SK101では、墓域の端で、土器が大量に捨てられている穴が見つかっている。
この穴は墓群の端にあたるだけではなく、居住区の縁辺でもあり、いわば正者と死者、両者の境界部分であり、「非日常的な空間」を意味しているかもしれない。
きっちり掘られた堅穴であり、下層では南半分に大型の土器、北半分に小型土器を中心に完形土器が置かれ、上層には祀りの終焉を告げるかのように、沢山の土器片が廃棄されていた。
発掘状況から、大勢の弥生人がこの穴を取り囲み、皆で飲食を共にし、使った土器類を置き、さらに割って廃棄するような、絶縁の儀礼を行ったと見られている。

現代と同じで、埋葬時には飲食を行う

兵庫県玉津田中遺跡でも、似たような遺跡が見つかっている。
墓の周囲からは儀礼と関係したと思われる炭化物に交じって、ハモの骨や炭化した米が検出されている。
飲食をともなう祀りを行った残り物とみられる。
見つかった土器類は造墓活動の最終段階に入った頃において、埋葬完了の大体的な祭祀行為に使用されたと考えられている。


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