邪馬台国と倭国の国々

邪馬台国と倭国の国々

魏志倭人伝に記された倭国の国々

魏志倭人伝に登場する邪馬台国。3世紀に日本のどこかに存在したとする、女王の治める国である。
卑弥呼といわれる女王がいたという事や、狗奴国といわれる南に位置する国(もしくは東)と敵対関係にあった事などが分かっている。
しかし、邪馬台国はどこにあったのか、すら分かっていないのが現状である。
ただ、魏志倭人伝に記された国のうち、対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県壱岐市)、末盧国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県糸島市)、奴国(福岡県福岡市)の五カ国は、所在地がほぼ確定されている。
それらの国々について、記述する。

対馬国(長崎県対馬市)

対馬国(つしまこく)は倭国の原風景が残る大陸との玄関口であった。
韓国の釜山からわずか50qの位置にある対馬は、南北約80kmにのびる対馬島を主島に、100以上の属島がある。
倭国と大陸を結ぶ海上交通の中継地として、近代に至るまで重要な意味を持っていた。

対馬国の名前の由来

対馬とは「津(船着場)の島」という意味で、多くの船が行き交った港があった島だった。
朝鮮半島から対馬は肉眼で見る事が出来、また対馬から壱岐も見る事が出来る。
造船技術が発達していなかった古代において、人々が大陸と行き来できたのは、対馬と壱岐という中継地があったからだ。

海洋国家の名残

対馬にある神社は、海に接して建立されている事が多く、海上からも参拝できる。
海洋国家だった「対馬国」の名残を残す風景である。
対馬国の中心地がどこだったかは分かっていないが、2000年に峰町の山辺遺跡で弥生時代の集落跡が発見され、対馬国の実態が徐々に明らかになってきた。
対馬からは140本以上の広形銅矛などの大量の青銅器が発見されている。

魏志倭人伝の記述

魏志倭人伝には対馬国に関して、次のように記述してある。
「山は険しく、道は獣道の様である。林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活している。船で南北に往来して交易を行う。」とある。
多くの入り江があり、天然の港として最適な地である一方、平地は少なく、海岸線からすぐに山地となる地形であり農業は難しい
鳥帽子岳展望台からは、現在もこの記述と変わらない風景を見る事が出来る。
また、他の倭の国と同様に、「卑狗(ひこ)」と呼ばれる大官と「卑奴母離(ひなもり)」と呼ばれる副官によって統治されていた。

明治時代に、対馬は二分された

明治時代(1901年)に掘削工事によって運河が作られるまで(万関瀬戸)、南北の島は地続きでありあった。
西岸についた船は、小型船ならば東岸まで運び、大型船は西岸で荷物を下して運び、東岸で別の船に積み替えられた。

対馬は日本の重要軍事拠点

対馬は、歴史の中で常に、倭国にとって国防の重要地であった。
6世紀から10世紀に掛けて行われた新羅との使節の往来は全て対馬経由で行われた。
663年に起きた白村江の戦いでは、倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗れている。
唐・新羅連合軍の侵攻を防ぐ為に、対馬に防衛拠点として、金田城(かなたのき)が築かれた。
1019年には刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼ばる女真族(じょちょくぞく)による襲撃事件があり、13世紀の2度にわたる元寇などでも、対馬は日本の国防の最前線の地であった。

一支国

約270基の古墳が集中する島で、一支国(いきこく)は弥生時代の壮麗な王都であった。
壱岐は南北約17km、東西約15kmの壱岐島を主島に、23の属島で構成される。
決して広くはない島だが、「古事記」や「日本書紀」の国生み神話で本州や九州、四国などの日本を構成する8つの島の一つに数えられている。

一支国には平野が広がっていた

海岸線からすぐに山地が迫る対馬と異なり、壱岐には長崎県第2位の広さを誇る深江田原平野が広がっている。
1993年には大規模な環濠集落である原の辻遺跡が発見され、壮麗な一支国の王都が築かれていた事が分かった。

魏志倭人伝

魏志倭人伝には、「竹、木、草むら、林が多くあり、3000もの家がある。田畑はあるが田を耕すだけは食料には足りず、南北に往来して交易を行う」と記述されている。
対馬の人口が「千余戸」と記されており、面積は対馬に劣るものの人口は3倍もあり、食料が足りないほど栄えた事が分かる。

沢山の古墳が築造された

5世紀以降には壱岐に多数の古墳が築造された。
その数は長崎県の古墳数の6割、約270基に及び、古代の大和王権にとって壱岐が重視されていた事が窺える。

末盧国

末盧国(まつらこく)があった佐賀県唐津市には、日本最古の水耕稲作跡が残っている。
末盧国は、大陸から海を渡った人々が対馬国→一支国を経由して最初に九州に上陸する場所であった。
桜馬場遺跡からは、王墓と推測される甕棺墓(かめかんぼ)が発見され、流雲文縁方格規矩四神鏡(りゅううんもんえんほうかくきくししんきょう) 、有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)、鉄刀、ガラス小玉、銅矛などが出土している。

日本最古の水耕稲作跡、菜畑遺跡

桜馬場近くにある菜畑遺跡では、炭化米や収穫用の石包丁、鍬、鎌などの農業用具が出土し、日本最古の水耕稲作跡とされる。
菜畑遺跡には、末盧館が併設され、日本最古の水田、縄文の森、竪穴式住居などが復元されている。
また同敷地内にある支石墓の上石はしないから移設されたもの。
支石墓は大陸に期限を持つ墓制で、朝鮮半島から伝来した。
大友遺跡の支石墓は下部構造が石を土杭の壁沿いに巡らせる石囲いの土杭となっており、九州北部の支石墓の中でも朝鮮半島の様式に近い。

複数の大陸文化を受容していた

一方、葉山尻支石墓群で発見された支石墓は、土杭と甕棺であり、朝鮮半島の支石墓とは異なる。
九州の玄関口として、大陸文化を積極的に受容しながら、実情に合わせて変化させていた柔軟性が窺える。

魏志倭人伝

魏志倭人伝には「4000余戸が有り、山海に沿って人が住んでいる。前を歩く人が見えないほど「ヨシ(葦)」が生い茂っており、人々はアマ(※)として魚や鰒(あわび)を捕って生活していた。」と記述されている。
※海人(あま)の事。

伊都国

伊都国(いとこく)の所定地は、現在の福岡県糸島市である。
魏志倭人伝には「世々、王がいる。皆、女王国に属する。帯方郡の使者が往来する際には、常に駐留する所である」と記述されている。
これにより、女王が統治する倭国の外交拠点だった事が分かる。

女性と思わしき王墓が発見

糸島氏にある平原遺跡からは、日本最大の大型内行花文鏡(おおがたないこうかもんきょう)を含む40面もの銅鏡が、意図的に割られた状態で発見され、何らかの祭祀が行われていた事が推測される。
1号墓は14×12mの四隅が丸い長方形で、その中央に木棺が埋葬されており、弥生時代終末期に造られたものだ。
また副葬品として中国で女性が身に着ける耳とうや玉類などの装飾品が出土し、魏志倭人伝に記されたように女王が埋葬されていたと考えられる。

大規模な王都が存在した

平原遺跡から南東1kほどに位置する三雲・井原遺跡は、伊都国の王都と考えられており、面積は60ヘクタールに及ぶ規模を誇る。
甕棺墓や石棺墓のほか、竪穴式住居や掘立柱建物などの集落跡が発見され、前漢鏡や楽浪系土器(らくろうけいどき)、三韓系土器など、大陸からの渡来品が大量に出土している。

奴国

魏志倭人伝に記された国で、現在、比定できる最後の地が福岡県春日市にあったとされる奴国(なこく)である。
邪馬台国に先立って、西暦57年に金印が贈られ人口は「2万余戸」とされる大国である。
金印が発見された志賀島は直線距離にして20kmもある
なぜ「大切なはず」の金印が志賀島に埋葬されたのかは分かっていない。

須玖岡本遺跡

春日市には多数の遺跡が発見されているが、須玖岡本遺跡からは、約30面の道鏡、銅剣・銅矛、玉類などが出土し、埋葬品の質と量から奴国王の王墓と考えられている。
金印が授けられた「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」はこの須玖岡本遺跡の被葬者から数世代跡の王であると考えられている。

奴国の丘歴史博物公園

須玖岡本遺跡は現在、奴国の丘歴史博物公園として整備され、歴史資料館が隣接している。
敷地内にある覆屋には甕棺墓が発掘調査時の状態で保存・展示されている。
また敷地内に移設展示されている王墓の上石は重さ約4トン程の花こう岩で出来ている。
2015年には、須玖岡本遺跡近くのすぐタカウタ遺跡から最古の道鏡鋳型が発見されている。

魏志倭人伝

東南の奴国まで百里ある。そこの長官を?馬觚(じまこ、じばこ)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸がある。


↑ページTOPへ