白村江の戦い

白村江の戦い

倭国と百済、唐と新羅による戦い

白村江の戦いは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間で行われた武力衝突
倭国は、外交関係が良好であった百済の救援要請に応え、朝鮮半島に出兵するが、唐・新羅連合軍の圧倒的な軍事力の前に、無残な敗北を喫してしまう。
この敗戦は、朝廷に衝撃を与えており、後の国力を最大限に発揮できる律令国家体制への歩みを決定づけた。

百済の滅亡で風雲急を告げる朝鮮半島情勢

中大兄皇子が国政改革を進めていた頃、朝鮮半島では、5世紀以来続いた高句麗、新羅、百済の三国時代が終わりを迎えていた。
660年、中国の新羅と連合して百済を攻め滅ぼしたのである。

国外の動きに鈍感だった日本

百済は20年ほど前から落ち目になっていたが、逆に新羅は急速に国力を伸ばしていた。
しかし、日本側は朝鮮半島の動向を見落とし、情報収集を怠っていた。

なぜ、倭国は唐と戦ったのか?

このとき百済の王子の豊璋(ほうしょう)が人質として日本にいた。
そのため百済の貴族であった鬼室福信が「豊璋を百済王に立てたいので、援軍を出してもらいたい」と要請。
援軍を求められた中大兄皇子は、このままでは唐の圧力が倭国国内にまで及ぶ事を危惧し、百済復興への助力を決意する。
663年、中大兄皇子は阿倍比羅夫らが率いる軍勢を朝鮮半島の西部へ向けて派遣。
当時の日本としては歴史上類を見ないほどの大軍であった。

当時の日本と朝鮮半島との交流

日本と朝鮮半島との交流は、弥生時代にまでさかのぼる。
中国の歴史書には、倭の小国や邪馬台国が、朝鮮半島における漢の拠点、楽浪郡(らくろうぐん)や帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国王朝へ朝貢していた事が記されている。
4世紀後半になると、朝鮮半島南部の伽耶諸国に対し、大和王権は強い影響力を持っていた(任那日本府)。
しかし、6世紀に入って茅は百済に領土の一部を割譲し、その後、百済に併合されて、倭国は朝鮮半島での拠点を失っていた。

白村江の戦い、各軍の動き(現在の日本、朝鮮半島、中国)

白村江の戦い、各軍の動き(現在の日本、朝鮮半島、中国)

百済救済のため、唐・新羅連合君と戦う

倭国軍2万7000は3回に分けて九州から出兵した。
援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を一旦は駆逐するも、唐は7000もの水軍を増援に送る。
唐・新羅連合軍は水陸併信し、白村江で倭・百済連合軍と開戦して、これを打ち破った。

白村江の戦い、各軍の動き(現在のソウル付近)

白村江の戦い、各軍の動き(現在のソウル付近)

中国の歴史書の記述

当時の中国の歴史書に、この時の戦いの様子が記されている。
「我が軍は倭と4回戦って、いずれも勝利した。そして、倭の船400艘を焼いた。煙は天を覆い、海水は赤く血で染まった。」と凄惨な戦いの様子を伝えている。

敗戦後、国内の防衛力の教化を図る

倭国軍が大敗した後、中大兄皇子は唐・新羅の報復と侵攻に備え、倭国へ亡命・帰化した百済人たちの技術を用いて、北九州の太宰府に水城と呼ばれる大規模な防御施設や、西日本各地に、大野城をはじめとする朝鮮式の山城を築いた。
筑紫、壱岐、対馬には、種に東国の農民を徴収して、約3000もの防人を配備したという。

太宰府周辺図

太宰府周辺図

その後の朝鮮半島情勢

唐・新羅連合軍は668年、ついに高句麗を滅ぼしたが、日本に攻め入る事はなかった。
高句麗の滅亡後、唐と新羅の両国が対立関係に陥った為である。
667年、新羅が朝鮮半島を統一する。
その後、新羅は、935年に新羅の敬順王が高麗に国を譲渡し、滅亡するまで続いた。

7世紀初期の東アジア

7世紀初期の東アジア

7世紀後半のアジア、百済と高句麗が新羅によって統一

7世紀後半のアジア 百済と高句麗が新羅によって統一される


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