弥生時代の日本と朝鮮半島

弥生時代の日本と朝鮮半島

福岡県の博多港から対馬行きフェリーが運航されている。
弥生時代、その航行の道では、左手に沿岸の国々を見ながら、呼子あたりから壱岐に渡り、壱岐から対馬を目指す。
対馬の北端からは、朝鮮半島(現在の韓国釜山)が見える程近く、日本と朝鮮が一衣帯水の地である事が分かる。
弥生時代、日本と朝鮮半島では、どのような往来が行われていたのか?

日本と朝鮮の交流

弥生社会の成立や成立や展開には「中国・朝鮮」との交流が深く関わっており、大きく三期(第一・二・三期)に分かれている。
なかでも関係の密接な朝鮮半島南部では、無文土器時代(むもんどきじだい)と原三国時代(げんさんごくじだい)が、日本の弥生時代にあたる。
なお、無文土器時代は、早期、前期、中期、後期に四期に分かれ、原三国時代は三韓の時代で前期と後期に分かれる。

第一期の交流

第一期(弥生早期〜前期初頭)は弥生の始まりで、整備された水田や、木製の農具(水田を作る為の鍬やエブリ、脱穀用の臼と杵)、石包丁や石鎌などの収穫具、木器や板・矢板(畔や水路を補強する)を作る工具(伐採用の太型蛤刃石斧と先端が直角に曲がった木の柄に取り付けてカンナの刃のように削る加工用の抉入石斧・扁平片刃石斧)、紡織具、有柄式や有茎石の磨製石剣、磨製石鏃、金属器、支石墓・箱式石棺墓・木棺墓、環溝集落等が新たに一斉に現れた。
この文化複合の直接の祖型は、有柄式石剣や抉入石斧、基盤状の大きな上石を小さな支石が支える南方式支石墓から見て、朝鮮南部の無文土器中期の文化である。

弥生の始まりが、人々にもたらしたモノ

弥生の始まりは、後の工業化社会の成立に匹敵するほどの大変動であった。
例えば佐賀県唐津湾岸の旧石器・縄文時代の遺跡は上場台地(標高100〜250m)に分布するが、弥生時代の遺跡は、当時の海岸線近くの低地に密集する。
人々は山を下りて農民となり、異なった景観の中で暮らし始めた。
農民の思想や新しい社会組織も導入され、これは社会の全体に渡る「物」や「事」の革新だった。
そこでは、忍耐力が培われ、働く事や土地が大きくなること、管理し蓄える事が「善」であるとの思想が芽生えただろう。

弥生人と縄文人の違い

縄文人は溝を掘らないが、弥生人は盛んに掘って、自然と人間を区分していた。
台地や森は農業の為の場所や資源となる。
縄文人は自ら移動して泉で水を汲むが、弥生人は動かずに水を汲みあげる井戸を大地に穿つ点も、両者の違いだ。

溝が、人々の格差を作った

溝は人と人をも区分し、対立させ、格差を付けていた。
ここに弥生時代の本質がある。
比恵・那珂や江辻のようにムラ人全員と日常の生活施設全体を囲む円形環溝は日本最古の農村である。

朝鮮より渡来した文化

円形環溝や井戸も、朝鮮南部の無文土器時代中期の集落で、現在、多くが発見されている。
この時期には、無文土器的な器型や調整が行われてあり、土器を作る時の接合法が、縄文の内傾接合から無文土器の外傾接合へと変化しており、こうした大転換には渡来した無文土器人が深く関わっている事が考えられる。

縄文人と渡来人が弥生の幕を開けた

問題はその様相で、この時期に朝鮮から渡って来た人々(無文土器人)だけの早期の集落はなく、どこでも縄文的要素と渡来的要素が共存する。
縄文人と渡来人は共同で弥生時代の幕を開けたのであり、石器の造りを見ても、渡来的要素は取捨選択された。

渡来人は、そんなに多くなかった?

福岡県新町支石墓から出た人骨は極めて縄文的で、文化と形質が一致しない。
渡来人集団の規模はとても小さく、縄文人の受容・適応力が高かった事が窺える。
縄文人は丸顔で目鼻の凹凸が目立ち、低身長であるのに対し、典型的な弥生人は面長でのっぺりした顔に切れ長の目を持って身長も高く、無文土器人的である。
ごく狭い地域に集中渡来し人口が増加して、渡来系弥生人集団が確立し、そこから遠賀川式土器の東漸と共に、遺伝子が拡散したのであろう。
なお、渡来は一度限りではなく、渡来文化の受容は早期全体に渡ると見られる。

弥生前期、権力階層は出来上がっていなかった

日本と朝鮮との文化圏の分離が明確になってくるのは、前期初頭である。
この第一期は自然波及期とされる。
朝鮮では墓に副葬された遼寧式銅剣(りょうねいしきどうけん)が、日本では集落から破片の形で出るから、政治的には未成熟で、まだ首長の政治権力は発達していない
※人々が高級品(銅剣)の価値を理解していなかったという事。
しかし、単独の支石墓や、板付T期の有力集団の方形周溝墓もあり、一定の階層構造は存在していたようだ。
なお、この時期の朝鮮では既に、政治的社会が形成されていた。

第二期の流入

多くの銅器が定着する

第二期(弥生前期末〜中期前半)には、朝鮮の細方銅剣・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)や多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきょう)が本格的に流入し定着する。
特に、前期末〜中期初頭には短い銅矛や無文の銅戈が多く、銅剣は新式もあるが古式が多い。
これは朝鮮では水石里期後半、細方の銅剣・銅矛・銅戈が揃う段階にあたる。
中期前半は細長い銅矛や有文の銅戈が主体となる。
朝鮮では勒島期にあたり、前漢前半代の中国鏡もある。

政治的な発達が見られる

これらの細方武器は朝鮮では、出現した時から首長層と完全に結びついており、特定個人墓にも服装され、集落(日常生活の場)からは発掘されない。
また、銀印と共に細方の銅剣・銅矛が発掘される例もあり、首長の権力と結びつく政治的な器物であったとみられる。
そして、第二期の弥生青銅武器も、集落からは出ずに、首長層墓に副葬されていた。
つまり、朝鮮同様の政治的器物だと考えられ、弥生社会にも政治的な発展が訪れたという事だ。

日本と朝鮮、互いに人々の往来があった

第二期、日本へは朝鮮より多くの渡来人が渡っており、港の建設や国の交易に参加する等、国造りに大いに貢献していた。
逆に、対岸の朝鮮でも、弥生土器が発見されている。
それ程、数は多くなかったようだが、弥生人が朝鮮に渡っており、居住していたようだ。
この時期、日本と朝鮮の両地域の人々が互いに交流していたのだ。
従って、弥生社会内の無文土器人の中には交易民や使節もいた。
しかし、この時期の遺跡からは金属器製造に関する物は発掘されていない。
吉野ケ里遺跡などから出た初期青銅器の鋳型は、いずれも擬無文土器を出す中期前半の段階である。

無文土器人の永住がもたらしたモノ

無文土器人の永住によって、朝鮮との密接な繋がりを地域社会が得た事は非常に重要であった。
この繋がりを通じて、金属器関係の工人達を呼び寄せ、拠点集落に再配置する形で、金属器生産が本格化した。
近畿でも、少数ではあるが、無文土器系の土器が見られるため、間接的ながら朝鮮との繋がりを持っていたようだ。
さらに、この時期の交易は、日本側にとって、古国家の生成の為に古朝鮮の権威をバックにする面が大きかったようだ。
そして日本は、第三期の朝貢貿易期に入っていく。

第三期 貿易の痕跡

朝鮮から中国との交易へ

第三期は朝貢貿易期で、前半(弥生中期後半)と後半(弥生後期)に分かれ、中国系の副葬品が目立つ。
第三期前半には、朝鮮北部に漢の四郡が設置され、南部も間接支配下に入って、地域社会の発展は阻害されていた。
この状況下で弥生人は四郡の中心であった楽浪郡との直接交渉を始め、福岡県三雲南小路や須玖岡本Dの大量の前漢鏡やガラス壁、金銅四葉座飾金具などを得た。
奴国や伊都国は初期ツクシ政権の国々を代表して楽浪郡と通交し、漢の権威によって内部をまとめた。
金銅四葉座飾金具は、前漢の首都長安で造られ楽浪郡の倉庫に保管された、東夷の王の為の木棺の飾りとされる。

発掘から分かる交易の深さ

第三期には、楽浪土器が壱岐・対馬では一遺跡1〜2点で、漁民から成長した海洋民が楽浪まで出掛け交易で入手した持ち込み品である。
かなりの量が出る壱岐の原の辻やカラカミ遺跡も、遺跡全体に散漫に分布し、楽浪の使節が持ち込むか、あるいは海洋民の交易による集積である事を示している。
なお、三雲番上U5土器溜では、狭い範囲に大量の弥生土器と共に、約40点も集中していた。
器種は鉢・大鉢・筒杯・器台などセットが揃っており、楽浪郡から渡来した漢人の居住を示している。
また、この頃には朝鮮南部との交流も、さらに活発となっていた。

鉄と文字

日本でも朝鮮でも鉄が取られていた

原三国時代の弁韓(べんかん)・辰韓(しんかん)では鉄生産が盛んで、大量の鍛造鉄器や、鋳造鉄器が作られていた。
「魏志」弁辰伝は、「『弁辰の』国々から鉄を算出する。韓『族』・歳『族』・倭『族』が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、『それは』中国で銭を用いているのと同じである。そして、また『鉄を楽浪・帯方』二郡にも供給している。」という、三世紀の状況を記している。
弥生中期後半と同時代の茶戸里一号墓で出た鋳放しのままの鋳造鉄斧や、刃の付かない板状鉄斧は鉄器を作る素材でもあった。
この時期の朝鮮南部との交流も、前段階と同じく鉄素材の獲得に大きな比重があった。

朝鮮では筆が見つかっている

弥生中期後半以後の交流に文字が使われた可能性が、朝鮮の茶戸里一号墓から見つかった文字を書く為の・木簡の誤字を削って訂正する書刀、代価の銭(五銖銭)の重さを計る天秤のおもりから浮上した。
茶戸里一号墓の被葬者は、日本で出土例が多い中細型銅矛を持ち、同時期の弥生土器も採集されたから、日本と交流があったのは確かである。

日本では硯や研石が見つかっている

一方、日本では、この時期の農村とは異なり、単なる漁村ではなく海上交易活動の比重が高い海村(原の辻遺跡、福岡県御床松原遺跡、福岡市今宿五郎江遺跡、福岡市元岡遺跡、鳥取市青谷上寺地遺跡など)の性格が明確になる。
重要なのは、海村では楽浪土器や中国銭貨(半両銭、五銖銭、貨泉など)が複数(4枚以上)出るのに対して、巨大な拠点集落(吉野ケ里遺跡、三雲遺跡、須玖遺跡、唐古・鍵遺跡など)では、三雲遺跡を除くと、楽浪土器は無いに等しく、中国銭貨は出ても一枚ある事だ。
また、原の辻遺跡では銅権、青谷上寺地遺跡では石権があり、島根県田和山遺跡では石硯と墨をする為の研石が出た。
勒島でも半両銭・五銖銭が合計五点ある。
山口県沖ノ山遺跡の116点以上や、韓国巨文島の980点も考え合わせると、日韓の海村ネットワーク世界では文字と中国銭貨を使って鉄の交易があったとみられる。
茶戸里の様な書刀は、中期後半から福岡県立岩などで見られる。
また、この時期、楽浪郡では文字を使っているから、楽浪土器から推測される渡来漢人も文字を使えたとみられる。
この時期の日朝交流は、対馬での日常交流、海村での交易、伊都国の国邑(三雲遺跡)を主体とした首長層の政治的交渉という三層構造であった。
さらに、唐古遺跡で発見された中国風の楼閣絵画などからすると、北部九州だけでなく、他の地域政権も直接的にせよ間接的にせよ楽浪郡と関わり始めていた。

朝貢する倭の王

倭国王の金印

第三期後半には「漢の倭の奴の国王」が西暦57年に後漢の光武帝に朝貢する。
この時に下賜された印綬が、天明4年(1784年)に福岡市志賀島から発見された金印と考えられている。

東アジア情勢を冷静に見ていた倭人たち

楽浪郡に通交し始めた他の地域政権よりも優位に立つ必要から、中国の出先機関ではなく、首都洛陽に使者(大夫)を派遣し、漢と直接交渉したのである。
この時期、後漢の体制は、王莽期の混乱を脱して安定を迎えていた。
倭人はこの機会を逃さない程、東アジア情勢に敏感になっており、その結果は、韓族にも与えられなかった金印に結実する。
漢の立場からすれば、こうした破格の待遇には僻遠の地からの朝貢を労うとともに、三韓を牽制する意図もあったようだ。

何故、金印が志賀島から見つかったのか?

金印が奴国の中心地(須玖)ではなく志賀島から出たのは、奴国の外交や通商を担った人々が管理した為と考えれている。
また、何がしかの理由から、遺棄されたともいわれる。

伊都国王 倭国王帥升

永初元(107)年に後漢に朝貢した倭国王帥升(すいしょう)は伊都国王とみられる。
朝鮮南部では慶尚南道固城貝塚に、変容した弥生後期後半〜末の北部九州の高坏があって渡来倭人集団の居住を示している。
金海平野を中心に広がる弥生青銅器のほとんどは奴国産である。
この時期までは、北部九州が主な窓口で、伊都国・奴国が主導する体制が続いていたのだ。
鉄素材が主要な交易品なのは、奴国の鉄器工房である赤井出遺跡で、大型細身の棒状哲斧が7本まとまって出た事からも分かる。
これは三韓後半に10本一組で副葬され、古墳時代の鉄素材である鉄テイと同様の意味を持つものだ。

徐々に、本州勢力が台頭していく

弥生後期になると、楽浪土器・三韓土器、或いはそれらの模倣土器が山陰・東瀬戸内や近畿でも出る点で、特に三韓後期に属する例が多い。
また、河内の土で作った日常炊飯用の赤焼土器鉢は渡来韓人の存在を推測させる。
これは、近畿や東瀬戸内の地域政権が中国・朝鮮と直接交渉したり、ツクシ政権の対外交渉への影響や干渉を強め、海外の文物や人々を引き寄せる力を増大させた事を示している。
そして、後期末には邪馬台国が倭国の盟主となり、外交権を手にした可能性が高い。
なお、ツクシ政権と邪馬台国の関係性や、邪馬台国の所在地は分からない。


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