皇極・斉明天皇

皇極・斉明天皇

35代皇極と37代斉明は同一人物

一度、天皇の位を譲る

皇極天皇(斉明天皇)は即位前の名前(諱)を宝皇女といい、33代・推古天皇に続く、日本史上2二人目の女帝(女性天皇)であった。
35代・皇極天皇として即位した後、36代・孝徳天皇に譲位し、孝徳の崩御後に再び37代・斉明天皇として即位した。(重祚)
呪術によって政務を執ったとされる。
彼女の治世は、蘇我氏が聖徳太子の血筋を滅ぼし、その蘇我も滅ぼされてしまうという、飛鳥時代における朝政の混迷期であった。

642年 皇極天皇として即位

のちの天智天皇と同期であった

34代・舒明天皇の次の天皇有力候補として中大兄皇子(後の天智天皇)山背大兄王らがいた。
しかし、なかなか次の天皇が決まらぬまま、舒明天皇は崩御してしまう。
そして、舒明の崩御の翌年・642年に宝皇子が35代・皇極天皇として即位した。

「古の道」という不思議な力を持っていた

皇極は「古の道」に従って政を行い、善政を敷いたと云う。
即位の年の夏は長い日照りが続いたが、皇極が南淵(明日香村)の河上に現れ、跪いて四方を拝み天を仰いで祈ったところ、雷鳴が轟き大雨が五日間降り続いたという。
民は皆よろこんで「この上ない徳の天皇」と称えたという。
この逸話を事実と取ることは出来ないが、こういった話が残っている以上、そこに政治的な意味が在ったと思われる。

聖徳太子の血筋が絶たれる

蘇我入鹿が山背大兄王を謀殺

33代・推古天皇の時代から蘇我氏の権勢が強くなっていたが、皇極の時代には蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿も政治に関わるようになっていた。
643年に大臣であった入鹿は、厩戸皇子(聖徳太子)の皇子たちを廃して、自身の従兄弟・古人大兄皇子を天皇にしようと目論んでいた。
そして入鹿は斑鳩宮を兵に襲わせ山背大兄王を自害に追い込んだ

中大兄と鎌足が蘇我の横暴に反発

皇極の同母弟・軽皇子(孝徳天皇)は、中臣鎌足を重用していた。
鎌足は、入鹿が立場を弁えず政治に介入している事に憤り、そして、鎌足は中大兄皇子に接近、共に事を図ることになった。

蘇我氏の滅亡で朝政が動く

乙巳の変 御殿内でのクーデター

645年、皇室と蘇我氏の間で「乙巳の変」、大化の改新の切っ掛けとなったクーデターが起こる。
皇極天皇が殿中にいるなか、その眼前で、中大兄らが入鹿に斬りかかった。
入鹿は皇極の前に進み出て「私に何の罪があるのか」と問いただし、驚いた皇極が中大兄に説明を求めると、中大兄は「入鹿が皇子たちを皆殺しにして帝位を奪おうとしています」と進言、それを聞いた皇極は殿中から退いた。
そして入鹿は止めを刺され、亡骸は庭に投げ捨てられ、翌日に入鹿の父・蘇我蝦夷も自害、蘇我氏は滅んだ。

蘇我氏が滅んだ事で、天皇周辺に権力が集中

これによって天皇の権威は更に強大となる。
事件の翌々日、皇極が存命のまま軽皇子に皇位を譲り、孝徳天皇として即位した。
皇極は後の時代にいう「上皇」の座に就いたといえ、天皇の座を退いた後も存在感を示し続ける事が出来るようになった。

斉明天皇 即位

しかし、実権は中大兄が握っていた

孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇が再び天皇の位に就く事になり、37代・斉明天皇として即位、これを重祚という。
ただし、実権は皇太子の中大兄が執っていたようである。
『日本書紀』によれば、皇極は都市開発のために工事を起こす事が多かったが、その労役の重さが反発を買ったようだ。

斉明天皇、崩御

当時、朝鮮半島では百済が唐・新羅から圧迫を受けていた。
660年、百済が唐・新羅の連合軍に攻められ滅んでしまうが、王一族・群臣らは唐に連れ去られ、将軍・鬼室福信は百済再興のための抵抗を続けていた。
日本は百済と友好関係にあった為、王子・豊璋の返還と倭の援軍を求められる。
そして、斉明天皇は自ら援軍を指揮し、翌661年に筑紫に赴くが、そこで崩御してしまった。


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