日本と渡来人

日本と渡来人の歴史

古来、様々な人々が海を渡って日本に来た。
中国や朝鮮の外交使節、南蛮貿易時代の宣教師や商人、明治の御雇外国人のように、一時的に滞在して帰国した人々もいれば、古代の大陸からのいわゆる「渡来人」、新たな生活を求めて日本にやって来た人々、日本に定住した者たちもいる。
どんな人々が海外から訪れ、日本史に足跡を残して来たのかを振り返る。

宋船模型 蓮尾正博氏作製

宋船模型 蓮尾正博氏作製

弥生時代 新技術を伝えた弥生人

朝鮮半島などを経由して多くの北方系のモンゴロイド(弥生人)が日本に到来した。
水稲耕作や金属生産などの新技術を伝えた。
なお、弥生人は先住民である縄文人に比べ、弥生人は目が細い、唇が薄いなどの身体的特徴を持っている。

古墳・飛鳥時代 大陸から大量移民

朝鮮半島を巡る政治的混乱が、倭国を巻き込みつつ、約300年間、継続する。
それと連動して、朝鮮諸国から多数の人々が海を越えて日本列島に移住してきた。
彼らによって大陸の先進の文物や制度が伝えられ、律令国家の成立にも大きな役割を果たした。
王仁、阿知使主、弓月君、段楊爾、司馬達等などの渡来人が日本にやって来た。

5〜6世紀の渡来人年表『山川 詳説日本史図録』より引用

5〜6世紀の渡来人年表(『山川 詳説日本史図録』より引用)

奈良〜平安前期 文化・外交使節の来日

遣唐使に伴われて来日した僧侶らが、朝鮮からの渡来人らと供に、律令国家としての法体系の整備などに尽力し、大仏開眼の開眼師や雅楽師を務めるなど、仏教の発展に寄与した。
一方で、国家間外交が本格化し、新羅や渤海からも施設が来日するようになった。
鑑真(唐)、菩提僊那(インド)、仏哲(林邑)らが日本にやって来た。

平安後期〜鎌倉前期 民間商人の進出

唐の衰退に伴い、対外関係が外交重視から経済重視へと転換した。
外国使節も貿易活動の担い手としての性格を強めるとともに、民間の商人たちが日本を訪れた。
宋が中国を統一すると、飛躍的に産業・経済が発展して東アジア通商圏が拡大する。
多くの宋海商が日本を訪れ、居留地(唐房)を構えて長期定住する者も多かった。
謝国明(南宋)らが日本にやって来た。

鎌倉後期〜南北朝期 渡来僧の世紀

宋の滅亡や蒙古襲来後も日中間の民間貿易は盛んで、多数の商人が来日した。
そんななか、鎌倉幕府・北条政権は鎌倉に禅寺を建てて中国人禅僧を住持に迎え、旧仏教に代わる精神的支柱とする政策を執った。
その結果、商人のほか多数の宋も来日し、「渡来僧の世紀」が到来した。
蘭渓道隆(南宋)、無学祖元(南宋)、一山一寧(元)らが日本にやって来た。

室町期 国交回復と境界人の活動

明が成立すると、足利政権との間で正式な国交が回復し、外交使節が来日した。
朝鮮や琉球からも使節が到来した。
明人の海外渡航が禁止され、商人や禅僧らの来日は途絶えたが、国境地帯の人の往来はむしろ活発になった。
正直(明)、鄭成功(明)、隠元隆g(明)らが日本に渡航して来た。

戦国期 ヨーロッパ世界との接触

日明関係が後退してシナ海の密貿易ネットワークである後期倭寇が拡大。
航海技術の発達に伴ってアジアに来たヨーロッパ人も、そのネットワークを利用しながら日本を訪れ、鉄砲やキリスト教をもたらし、南蛮貿易が活発となった。
この時代にはザビエル(スペイン)、フロイス(ポルトガル)、ヴァリニャーニ(イタリア)などが日本を訪れている。

安土桃山〜江戸期 混乱から回復へ

豊臣秀吉は海外への進出を目論み大陸へ進出するも失敗。
この際、大陸から多くの人々が日本に渡来して来た。
混乱の後、徳川家康によって、朝鮮との国交回復、オランダ・イギリスとの貿易の奨励など、新たな秩序の構築が試みられ、諸国の使節や商人などが日本を訪れた。
この時代にはウィリアム・アダムス(イギリス)、ヤン・ヨーステンらが日本を訪れている。

江戸前期 対外窓口を「四つ」に限定

江戸幕府は、「徳川の平和」を持続させるため、キリスト教禁令を強化し、海禁体制の構築を推し進めた。
その結果、対外的な窓口が、対蝦夷地は松前、対朝鮮は対馬、対琉球は薩摩、対中国・ヨーロッパ(後にオランダのみ)は長崎の「四つ」と定められた。
異国人の渡来もこの範囲内で行われる事となった。
いわゆる「鎖国時代」の始まりである。

江戸中期 中国船の増加と異国船打払令

清が積極的な貿易政策を行い、中国船が大挙して長崎に押し寄せるようになるが、幕府は海禁政策を維持し、貿易を制限した。
また、ロシアなどの異国船が訪れ、ラクスマンが通商要求したが、幕府はやはり海禁政策を貫き、異国船打払令を出して対応した。
しかし、アメリカよりペリーが浦賀に来航、幕府はアメリカの軍事力に屈し開国、日米和親条約を締結。
イギリスからパークス、フランスからロッシュらが日本を訪れた。

幕末・明治 開港と「御雇外国人」

アヘン戦争での清の敗北を契機に、幕府は海禁から開港へと舵を切り、欧米各国と通商条約を結ぶ。
これにより大量の異国人が日本を訪れるようになった。
幕府や各藩、明治政府、民間機関に雇用された「御雇外国人」を通じて欧米の制度・学術・技術などが伝えられ、明治維新や文明開化が達成された。
その成功に学ぼうと、中国人や朝鮮人留学生も多く来日する。
この頃には、クラーク(アメリカ)、ベルツ(ドイツ)、モース(アメリカ)、ハーン(イギリス)らが日本に渡来している。

大正・昭和前期

日本が近代化に成功し、帝国主義国家としてアジアに領土を拡大していく事は、多民族国家への志向を意味した。
外国人の自由な居住・旅行・営業を許可する「内地雑居」が実施され、多くの中国人や朝鮮人が日本に渡来した。

昭和中期 GHQと在日米軍

太平洋戦争敗戦後、戦後処理のためGHQが日本に進駐する。
日米安保条約の締結によって、現在も多くの在日米軍が存在している。

現代 経済成長による多国籍化

日本の経済成長に伴い、アジアを中心に世界各地から多様な国籍の外国人労働者が到来。
資格外就労や受け入れを巡るトラブルなどの問題が多く残っている。
また、企業の海外活動の活躍に伴ってビジネスパートナーとして到来する外国人も、現在増加している。

出典・参考資料(文献)

  • 『週刊 新発見!日本の歴史 28号 徳川家康の国家構想』朝日新聞出版 監修:村井章介

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