中大兄皇子(天智天皇)

蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子(天智天皇)

「大化の改新」を行った人物

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:626〜671年)は飛鳥時代の日本の皇子で、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子であり、母は皇極天皇(こうぎょくてんのう)である。後の第38代天皇である天智天皇(てんじてんのう)の名でも知られる。
蘇我入鹿を「乙巳の変(いっしのへん)」で暗殺した後、「大化の改新」を行った人物で、朝鮮半島の百済再興に協力を行ったり、白村江で大国である唐とも戦った。

中大兄皇子・天智天皇(古今偉傑全身肖像)

中大兄皇子/天智天皇(古今偉傑全身肖像)
中臣鎌足とともに蘇我入鹿を討った後、大化の改新を行った。

乙巳の変と大化の改新

乙巳の変、蘇我入鹿を暗殺

聖徳太子の死後、蘇我氏を抑えられる者がいなくなってしまい、蘇我蝦夷(そがのえみし)蘇我入鹿(そがのいるか)親子の権勢と専横ぶりは、天皇家すらも凌ぐ程であった。
そこで、中大兄皇子と豪族の中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)の二人がクーデーターによる政権の中枢奪取を画策した。そして645年に宮中において、皇極天皇の御前で入鹿を誅殺、その後、入鹿の父である蝦夷も自害した為、蘇我氏を滅ぼしたのだ。
この出来事を「乙巳の変」という。

中大兄は天皇に即位せずに権力の中枢にいた

変後、皇極天皇の弟である軽皇子が孝徳天皇として即位、中大兄皇子は皇太子となった。
さらに孝徳天皇が崩御した後、再び皇極太上天皇が斉明天皇(さいめいてんのう)として即位した。
この時も中大兄皇子は皇太子のままであった。

「皇太子」という制度は本当はまだなかった?

大化の改新のときにはまだ「皇太子」という制度はなく、『日本書紀』の編纂時に中大兄に皇位継承権があった事を示す為に脚色された可能性がある。

白村江の戦いで敗北

朝鮮半島で高句麗、新羅、百済の対立が激化、唐と結んだ新羅が百済を滅ぼす。
中大兄皇子は百済の復興勢力を支援を決定、朝鮮半島に軍を派遣するが、663年(天智2年)の白村江の戦いで敗北してしまう。
>> 白村江の戦い

白村江の敗北後に「甲子の宣」で内政改革

白村江の戦いの後の664年(天智3年)、中大兄皇子は「甲子の宣」を発布して政治改革を行う。
冠位を十九階から二六階へ官人の数を増やし、官僚制度の再整備を行った。
さらに「氏上の認定」と「民部・家部の公認」で豪族支配の強化と融和も行っている。

近江大津宮に遷都し、天智天皇として即位

中大兄皇子が天智天皇として即位したは668年(天智7年)である。
その前年の667年に近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷都(都を移す)した後に即位したのだ。
※近江には琵琶湖がある。琵琶湖を経由する事で、日本海を渡り、大陸への行き来を早める事が出来るため、近江に遷都したと云われる。
また、中大兄皇子は皇太子時代に沢山の政敵や皇位継承者を誅殺したと云われる。
誅殺された人物として政争を避けて出家していた古人大兄王や、蘇我倉山田石川麻呂や有間皇子などの人物が挙げらえる。

唐の制度を参考に国造り

天皇に即位後は律令国家づくりに邁進する事となる。
日本最古の戸籍と云われる「庚午年籍(こうこねんじゃく)」を作成し、人民支配の基礎固めを行った。
さらに役人たちの時間管理の為、日本初の水時計である「漏刻(ろうこく)」も作成した。
水が溜まる速さで時間を計り、その時間に合わせ鐘を鳴らす。そうする事で、鐘の音を使い人々に時刻を知らせる事が出来るようになったのである。
こういった制度は中国の唐の制度を手本に造られたと云われる。
しかし、これらの功績を天智天皇が残したのは紛れもない事実ではあるが、自分の進路を妨げるものは容赦なく排除した苛烈な人物でもあったと云われる。

「改新の詔」四カ条

646年、中大兄皇子らは4カ条からなる改新の詔を発布。
※しかし、その内容については後の大宝律令などを参考に書き換えられたものといわれる

公地公民制

王族や豪族による土地・人民の所有を廃し、土地と人民は全て国家の支配下とする。
※墾田永年私財法の施行により廃される事となる(公地公民制は現在でいうところの社会主義に似ている)

中央集権体制の強化、地方行政組織の整備

地方を支配していた国造の権力を削減するため、クニを「評」という小さい行政組織に再編。
国司(惣領)、評造を任命し、中央集権体制の強化を図る。
※簡単にいうと、現在でいうところの県や市などを設置した
また、軍事や交通などを整備した。

班田制

戸籍と計帳を作成し、班田収授法を定める。
貴族や人民に対し田が配られる。田を配られた人が亡くなった場合、田は国家へ返される。

新税制

統一的な税制度を定めて、一定基準で税を割り当てる。
田の面積に応じて徴収する「田の調(たのみつぎ:布などを納付)」、戸数に応じて徴収する「戸別の調(こべつのちょう)」など

大化の改新後

難波宮から飛鳥へ再び遷都

大化の改新後、実権を掌握した中大兄皇子は孝徳天皇を退けて飛鳥への再遷都を強行。
孝徳天皇は難波宮で逝去、皇極が斉明天皇として再び即位した。

蝦夷を服属させる

658年(斉明4年)、中大兄皇子らはそれまで朝廷に服さなかった蝦夷を征討し、その支配体制を盤石にした。
このとき蝦夷征討に派遣されたのは越国守・阿倍比羅夫であった。

壬申の乱の原因を作ってしまう

当初は弟を皇太子にするが、後に子を選ぶ

天智は当初、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太子としていたが、晩年には子の大友皇子に皇位を継がせようと願うようになる。
671年(天智10年)には大友皇子を太政大臣に任命し、政権に参画させた。

天智の死後、弟と子が争う

同年の冬、病に倒れた天智は大海人皇子を大津宮に呼び後を託そうとするが、大海人皇子は天智の要請を受けずに出家を申し出て、吉野へ隠遁。
天智の死後、大海人皇子は挙兵し、大友皇子を自害に追い込む。
>> 壬申の乱


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