蘇我蝦夷

蘇我蝦夷

蘇我入鹿の父、乙巳の変で自害

蘇我蝦夷(そがのえみし:586年〜645年)は、飛鳥時代に天皇に仕えた貴族・大臣。
父・蘇我馬子の没後、蝦夷は蘇我氏本宗家を継ぎ、政敵を次々と滅ぼして蘇我氏の繁栄を築いた。
乙巳の変で息子の入鹿が殺害され、自身も邸宅にて自害した。

政敵を滅ぼして蘇我氏の繁栄を築いた

父は蘇我馬子

蝦夷の父・蘇我馬子は626年(推古34年)にこの世を去った。
馬子の没後、蝦夷は蘇我氏本宗家を継ぎ、政敵を次々と滅ぼして蘇我氏の繁栄を築いた。

生まれながらのエリート政治家だった

蝦夷は若い頃から馬子の後継者と目されており、610年(推古18年)には新羅と加羅の使者を迎える行事に出席。
蝦夷は10人あまりいた大夫の中でも4人の最上位者に名を連ねており、その中でも大伴咋に次ぐ第二位の地位にあった。

推古天皇のお気に入り

また、蝦夷は「豊浦大臣」と呼ばれていたが、「豊浦」とは推古天皇の最初の王宮が営まれた場所である。
その為、推古からの期待も高かった事が窺える。

推古天皇の後継者争いが勃発

敏達天皇の孫と、聖徳太子の子が争う

628年(推古36年)3月、75歳の推古天皇は臨終の床につくが、実子の竹田皇子は既に亡く、後継者と期待されていた厩戸皇子(聖徳太子)も6年前に没していた。
そのため、その為、二人の皇子が後継者候補に挙がる。
一人は敏達天皇の孫である田村皇子、もう一人は聖徳太子の子・山背大兄王であった。

推古天皇の遺言

推古天皇は亡くなる前日、田村皇子と山背大兄王を枕元に呼び、それぞれに遺言を残したという。
田村皇子には「天下を治めるというのは、安易に口に出せるような事ではない。行動を慎み、物事を見通せるように心掛けよ」と論し、山背大兄王には「貴方はまだ未熟、心でこうしたいと思っても口に出さず、必ず群臣の意見に耳を傾けるように」と告げた。
そして翌日、推古天皇は崩御した。

叔父を滅ぼし、蝦夷が朝政を支配

蝦夷の推した皇子が次期天皇に

次期天皇を議論で決めることに

推古天皇を次期・大王(天皇)を決めぬまま崩御した為、群臣らは話し合いで大王を決める事になった。
このとき、蝦夷や大伴鯨、阿倍内麻呂などは田村皇子を推し、蝦夷の叔父である境部摩理勢(さかいべのまりせ:馬子の弟、蝦夷の叔父)や許勢大麻呂、佐伯東人などは山背大兄王を推した。
田村皇子は非・蘇我氏の家系だったが、彼には蝦夷の妹である法提郎媛(ほてのいらつめ)との間に古人大兄皇子がいたため、後継者候補に推されたとされている。

蝦夷と叔父・摩理勢の対立

この頃には摩理勢は甥である蝦夷を敵視するようになっていた。
摩理勢にとって兄にあたる馬子の墓を造営する役目を途中で放棄し、公然と叛旗を翻す程であった。

蘇我氏の分家“境部氏”

蘇我氏には多くの分家があったが、その中でも特に強大だったのが摩理勢の境部氏であった。
摩理勢とその子・雄摩侶(おまろ)は蘇我氏本家に匹敵する権勢を誇り、蝦夷にとっては脅威の存在だった。
しかし、摩理勢には泊瀬仲王(山背大兄王の異母弟)という後ろ盾もおり、排除する事も出来なかった。

転機を逃さず、政敵を謀殺した蝦夷

ところが間もなく泊瀬仲王は死去、摩理勢は後ろ盾を失ってしまう。
蝦夷は摩理勢の邸宅に兵を差し向け、摩理勢とその子・阿椰を殺害した。

田村皇子が即位、舒明天皇に

摩理勢の死後、改めて次の大王(天皇)を決める話し合いが行われた。
しかし、摩理勢が殺された為、山背大兄王に味方する者は少なく、田村皇子が即位して舒明天皇となった。

舒明天皇の即位が蘇我氏滅亡の始まりに

蝦夷の甥がのちに入鹿暗殺に加担

蝦夷は摩理勢を滅ぼした事で、蘇我一族内における立場を確固たるモノにしたが、蝦夷の弟・倉麻呂(雄当)は皇位継承会議で態度を保留し続けた。
倉麻呂には石川麻呂という子がいたが、彼は乙巳の変で中大兄皇子らに味方し、蘇我氏本宗家を滅ぼす事になる。

舒明の子・中大兄皇子が乙巳の変を起こす

舒明天皇は蝦夷の協力で即位した為、表向きは蝦夷と協調体制を取っていた。
しかし、舒明が造営した百済宮は蘇我氏の本拠である飛鳥から離れた場所に建っており、しかも蝦夷は宮の建設には携わっていなかった。
これは、舒明が蘇我氏の政治介入を拒んでいた可能性を示している。
そして、その舒明の子である中大兄皇子が、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅亡に追い込むことになる。

舒明の崩御後、蘇我の専横が本格化

次は舒明の后を天皇に仕立てる

舒明から距離を置かれていた蝦夷であったが、舒明の崩御後はその皇后であった宝皇女を次の大王(天皇)に据えるべく暗躍する。
舒明には古人大兄皇子という子がいたため、まずは中継ぎ的な役割で宝皇女を擁立した。
そして、宝皇女が即位して皇極天皇となった。

大臣の称号を勝手に息子に譲る

この頃から蝦夷と入鹿の専横が目立つようになる。
643年(皇極2年)に蝦夷が入鹿に大臣の称号を譲るが、これも蝦夷の独断で行ったものであった。

入鹿が聖徳太子の血筋を滅ぼす

舒明崩御の後、次の大王候補としてまたも聖徳太子の子・山背大兄王の名が挙がったが、結局は蝦夷の思惑で皇極が即位した。
これによって蝦夷・入鹿と山背大兄王の関係は完全に悪化、蝦夷・入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を擁立する為、山背大兄王の排除を考えるようになったという。
そして入鹿は斑鳩宮に兵を向け、山背大兄王は逃亡先で自害してしまった。
この山背大兄王謀殺に対して蝦夷は「太子の子孫に罪はない。お前(入鹿)の命も危ういだろう」と入鹿を責め嘆いたと『日本書紀』には記されるが、近年では入鹿の独断専行ではなかったという見方が強い。

蝦夷の死で、蘇我氏本宗家が滅ぶ

乙巳の変、舒明の子と蝦夷の甥が蘇我氏を襲う

645年(皇極4年)6月12日、朝鮮三国の使者が貢納品を献上する儀式が飛鳥板蓋宮で行われた。
大臣である入鹿も出席、そして、そこで入鹿は中大兄皇子・石川麻呂(蝦夷の甥、入鹿の従兄弟)らによって襲撃され命を落とした。

蝦夷、自邸に火を放って自害

入鹿を討った中大兄皇子らは飛鳥寺に入って戦いに備えた。
しかし、蘇我氏本宗家の群衆は戦意を喪失しており、翌日には蝦夷も自邸に火を放って自害した。
こうして蘇我氏本宗家は滅亡してしまった。


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