蘇我入鹿

蘇我入鹿

蘇我入鹿(610?〜645年)は飛鳥時代の皇族の人物。蘇我馬子の孫であり、蘇我蝦夷の子である。
645年の「乙巳の変」において、中臣鎌足と中大兄皇子によって暗殺された
蝦夷が大臣であった642年、第35代 皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する事となる。
さらに翌年、643年の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。

聖徳太子の血筋を断った

この頃、天皇中心に政治を行おうとする動きが強まったいわれる。
入鹿はこのような動きを押さえ古人大兄皇子(入鹿の従兄弟)を天皇につけようと画策する。
そのため、邪魔になる聖徳太子の子の山背大兄王や上宮王家の人々を自殺に追い込んだのであった。

天皇をも凌ぐ権勢を振るう

皇極天皇のとき、蘇我氏の権勢は最高潮に達した。
入鹿は天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を見下ろせる甘樫丘(あまかしのおか)に、父・蝦夷と入鹿の邸宅を築いたのだ。
蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はさま)の宮門」、そして子供たちを王子(みこ)と呼んだという。
これは、自分たちと天皇が同格である事を意味するのだ。

多くの者の反感を買う

入鹿の行いは、反対勢力の結束を促すことになる。
その中心になったのが、中大兄皇子中臣鎌足である。
この二人は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)に接近し承諾をもらい、佐伯氏や葛城氏などの支持を得たのだ。
そして、大化元年(645年)6月、「三韓の調(高句麗・新羅・百済に対し貢ものを贈る儀式)」を名目にして、板蓋宮の大国殿に入鹿はおびき出された。

乙巳の変で、入鹿暗殺

暗殺を成功させるため、中大兄皇子らは事前に、入鹿が助けを呼べないようにして待ち構えていたのだ。
皇極天皇の前で儀式が始まる。
儀式の上表文を石川麻呂が読み上げるが、手筈通りに子麻呂らが動き出さない。
皆、暗殺に怯え、恐怖していたのだ。
そのため、皇子は自ら入鹿に向って突進する。
そして入鹿は殺害されてしまった(乙巳の変(いっしのへん))。

父、蝦夷も自害し蘇我氏は滅亡する

蝦夷は一族や仲間を集め、最後の決戦を企てるも、既に人心は離れてしまっていた。
一旦は蝦夷の屋敷に集まった者たちも、やがて武器を置き、蝦夷の下を去って行ってしまうのだ。
死を覚悟した蝦夷は、屋敷に火を放ち自害する。
これにより、一時、天皇をも凌ぐ権勢を誇った蘇我氏本家も滅亡するのであった。


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