鉄剣銘文(文字)は貴重な史料

鉄剣銘文(文字)は貴重な史料

目次

歴史書と違い、銘文は歪曲ができない

「大王」という古代大王(天皇)の存在を今に伝えた

発掘調査によって発見された古墳時代や飛鳥時代の鉄剣は貴重な歴史史料である。
鉄剣に刻まれた銘文(文字情報)は歴史書(文献史料)をはるかに上回る信頼性があるのだ。
歴史書とは違い、埋葬された鉄剣銘文には、後世の為政者が政治的な歪曲を行うことができないからだ。
古代天皇らが当時は「大王」と呼ばれていた事を証明したのも鉄剣銘文だった。

聖徳太子(推古天皇)の時代の鉄剣が発見

干支の年号が刻まれた古墳時代の鉄剣

2023年1月、熊本城(熊本県熊本市)の敷地内にある古墳時代の横穴墓群で出土した鉄刀に、西暦604年の干支とされる「甲子年(きのえね)」を含む6文字の銘文があったことが発表された。
銘文を刻む古墳時代の刀剣が出土したのは全国8例目で、干支の年号を持つものとしては4例目となる。

科学調査によって文字が発見

銘文が刻まれていることが判明した鉄刀は、2022年4月の発掘調査で出土したもの。元々はNHK熊本放送局があった場所で、その跡地を調査している際に見つかった。
長さは約55センチで、表面が錆と木製の鞘の残欠に覆われていた。
そこで、熊本大学がX線CTスキャン調査を行ったところ、表面を彫って金属をはめ込む技法によって施された文字が見つかった。

推古政権が豪族に刀剣を配布していた可能性

推古時代の同じ鉄剣が各地(兵庫と熊本)で発見

604年は推古天皇の即位12年にあたり、蘇我馬子厩戸皇子(聖徳太子)が国家の確立に向けて十七条憲法、冠位十二階などの政治改革を行っていた時代である。
1983年に兵庫県養父市の箕谷2号墳で出土した鉄刀には「戊辰年五月中」と刻まれているが、熊本で発見された鉄刀はこれによく似ている。
「戊辰年五月中」は西暦608年を示しているとされ、当時の朝廷が、地方豪族に同じタイプの鉄刀を配布していた可能性がある。

銘文は古代日本の成立ちを知る手掛かり

百済から贈られた「七枝刀」

鉄製の剣や刀に刻まれた銘文は、謎に包まれた古代国家の成り立ちを知る貴重な手がかりになっている。
有名なのが石上神宮(奈良県天理市)に所蔵されている七支刀で、剣身の左右に段違いで3本ずつ、計6本の枝刃がある。
『日本書紀』には「七枝刀」の記述があり、百済が倭国に朝貢する際に献上したことが記されている。

ただし、七支刀の銘文は全ては読めない…

七支刀には剣身の表に34字、裏に27字の銘文があるが、劣化のためにすべての字を読むことができない。
そのせいもあってか、銘文の解釈をめぐって長らく論争が続いている。
百済と倭国が『日本書紀』のような関係だったのか、それとも対等な立場だったのかは、現在も意見が分かれている。
当然、銘文が全て読めていたなら、歴史研究はさらに進んでいた事だろう。

「ワカタケル大王」と刻まれた鉄剣が発見

金錯銘鉄剣、埼玉古墳群の稲荷山古墳

銘文が刻まれた鉄剣として最も有名なのが、1968年、埼玉古墳群の稲荷山古墳(埼玉県行田市)で出土した「金錯銘鉄剣」である。
全長73.7センチで、発見時は完全に錆びついていた。
しかし、10年がかりで錆を落とし、X線調査で剣身の表面に57文字、裏面に58文字の銘文が刻まれていることがわかった。

大王に仕えた人物が所有していた剣(西暦471or531年)

表面には、鉄剣の所有者とされる「乎獲居臣(オワケノオミ)」という人物の系譜が記されている。
裏面には、このオワケノオミが“獲加多支歯(ワカタケル)大王”の近くに仕え、辛亥の年にこの剣を作らせたことが記されている。
「辛亥年」は西暦471年と推定されが、531年とする説もある。

もう一本、ワカタケル大王の鉄剣がある

金錯銘鉄剣に出てきた「ワカタケル大王」は、熊本県和水町の江田船山古墳で出土した鉄刀の銘文にも見られる。 鉄刀の背の部分に、銀の象嵌で75文字の銘文が刻まれている。 鉄刀は明治6年(1873)に発見されていたが、保存状態が悪く、すべてを判読するのが難しい状態だった。 しかし、稲荷山古墳の鉄剣が判読されたことで、江田船山古墳の鉄刀にも「ワカタケル大王」が刻まれていることがわかった。

ワカタケル大王はどの天皇だったのか

大王=天皇(一番えらい人)、という認識が国内に浸透していた

鉄剣と鉄刀には「治天下大王」「佐治天下」と記されており、天下を治める大王という認識が国内に浸透していたとみられる。

恐らく【雄略天皇】で、倭の五王の「武」

「ワカタケル大王」の正体だが、「辛亥年」の年代から、「倭の五王」の「武」とされる雄略天皇だったとみられる。
雄略天皇が「大伯瀬幼武(オオハツセ・ワカタケ)」という諱(即位前のもともとの名前)をもつのも、「ワカタケル=雄略」の説を後押ししている。
稲荷山古墳の鉄剣と江田船山古墳の鉄剣は、雄略が在位した5世紀後半に、ヤマト王権の勢力が関東から九州まで及んでいたことをうかがわせる。

欽明天皇説もあり

一方で、「辛亥年」を531年と解釈すると、別の大王が「ワカタケル大王」だったことになる。
専門家の中には、6世紀半ばから後半にかけて在位した欽明天皇を「ワカタケル大王」と考える人もいる。


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