台与

台与 卑弥呼の後継者

卑弥呼の後継者とされる女王・台与(出生:235年)はその後も中国への朝貢を続け、倭国の安定を図った。
非常に謎の多い女王台与と邪馬台国の終焉とは、どの様なモノだったのか?

わずか13歳で即位した女王

卑弥呼の死後、揺れる倭国

卑弥呼の死後、屋台骨を失った倭国内の平穏は再び乱れ始める。
倭人伝には、卑弥呼に次いで男王が立ったものの国中が服さず、1000人もの使者を出す程の大混乱が起きた事が記されている。
倭国大乱の再来となりかねない事態を収める為の切り札は、女王の擁立であった。
邪馬台国は卑弥呼の統治を踏襲するように、彼女と血の繋がった宗女(同族の女性)台与(とよ/いよ)を次代の王に立てたのである。

卑弥呼の血縁者だった台与

台与はこの時わずか13歳であり、卑弥呼との血縁が重視されたモノか、もしくは卑弥呼に重なって見えるような呪術的な求心力を持っていたのかも知れない。
また、卑弥呼の死以前から倭国には魏の使者張政が派遣されており、卑弥呼の死、男王の即位、台与の擁立という一連の混乱に彼が関与していた(魏の思惑があった)可能性が指摘されている。

邪馬台国に関する歴史は消える

女王となった台与は、邪馬台国連合を率いる任を果たす事に成功したようで、複数の史書の記録から彼女が魏および晋王朝に何度か朝貢を行っていた事が分かっている。
しかし、「台与が20人もの使者を同伴させて張政を魏に送り返し、皇帝に生口(奴婢)や玉等を献上した」という彼女の外交実績の記述を最後に、倭人伝は筆を擱き、以後「邪馬台国」の文字は歴史の表舞台から姿を消してしまう。

台与の次は男王

『魏志』より後世の『梁書』には、台与の次に再び男王が立ったという一文もあるのだが、それが邪馬台国の王だったのかどうかは不明である。
この後の倭国は「空白の4世紀」といわれる文字資料の殆どない謎の時代に入っていく。
七支刀や稲荷山古墳の鉄剣級の大発見がない限り、邪馬台国の謎は解き明かされないだろう。

台与は誰だったのか?

台与については、その音から崇神天皇の皇女・豊鍬入姫(とよすきいりひめ)やニニギの母・萬幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)に比定する説もある。
しかし、台与について名前くらいしか分かる事がなく、本当に「toyo」と発音したかの確証すらないのが実情だ。

謎に包まれた邪馬台国と台与

13歳で女王になった台与は卑弥呼同様に終生独身を強いられた可能性もあり、また箸墓古墳の築造年代を3世紀末以降とみる場合は、被葬者は卑弥呼でなく、台与とする説もある。
邪馬台国同様、彼女もまた謎に包まれた存在なのだ。

台与の表記

魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書』『北史』では「臺與」と記述されている。
「台与」は「臺與」の代用。


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