大伴氏(おおともうじ)はヤマト王権の軍事職を務めた豪族。
天孫降臨の際、天孫ニニギ一行を先導したアメノオシヒが祖で、天皇家を神代の時代から支えて来た。その子孫のヒノオミは神武東征の先鋒を務める。
大伴金村は、武烈・継体・安閑・宣化・欽明に大連として仕えた。後に藤原氏との政争に敗北し衰退する。
平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて【伴氏】に改称、姓はもとは連、のちに八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。
大伴氏はヤマト王権において軍事職を務めてきた名門家族で、天孫降臨の際に武装して先導したアメノオシヒが祖と伝わる。子孫の道臣命(ヒノオミ:日臣命)は神武東征の先鋒を務めるなど、大伴氏の先祖は最高位の人物の道案内役として登場する。
「大伴」は「大きな伴造」という意味で、朝廷直属の伴部を多数率いていたのが氏の由来とされる。
本拠地は摂津・和泉地方の沿岸地域だと伝わる。一方で、神武東征で功を挙げた道臣命(ヒノオミ)が、大和国高市郡築坂邑に宅地を授かったという記録もる。
また、大伴氏の別業(別邸)が城上郡跡見荘にあったことから、磯城・高市地方(奈良県橿原市・桜井市)に根拠を構えたと思われる。
大伴武日(たけひ)は景行天皇における日本武尊東征の従者の一人。軍事で名高い大伴氏とあってヤマトタケルの戦いにも協力していたという。
大伴氏の人物で最初に実在したとされる大伴室屋(むろや)は、21代・雄略天皇の代に大連に任じられた。
崩御に際しては大王から後事を託され、直後に起きた星川椎宮皇子の乱を鎮圧している。
大伴氏の最盛期を築いたのは、室屋の孫・金村である。専横を奮っていた平群真鳥・鮪の父子を滅ぼし、5代の大王(武烈・継体・安閑・宣化・欽明)に大連として仕えた。
武烈天皇の崩御で皇統断絶の危機に陥った際には、15代・応神天皇の5世孫である男大迹王(26代継体天皇)を越の国から迎えている。
磐井の乱では、物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。
外交では、高句麗に国土の多くを奪われた百済から任那4県の割譲を要請され、これを承認している。
だが29代・欽明天皇の代に失政として物部尾輿などから糾弾され、金村は失脚に追い込まれた。(任那4県割譲事件)
晩年は館があった摂津国住吉郡に住み、同地で亡くなった。
金村の失脚後は蘇我氏や物部氏の後陣を拝したが、大伴氏の力はまだ健在であった。
金村の子たち(磐・咋・挟手彦)は大将軍や大夫などを務め、大化5年(649)には大伴長徳が右大臣に任じられた。
壬申の乱では大伴馬来田・吹負の兄弟が大海人皇子(40代・天武天皇)側につき、戦功を挙げて軍事氏族としての実力を見せつけた。
8世紀に入ると藤原氏が台頭し、旧来の豪族が次々と没落する。大伴氏もしぶとく生き残ったが、藤原氏による他氏排斥で勢力が衰えていった。天平宝字元年(757)に橘奈良麻呂の謀反計画が露見したときには、一族の者が多く処罰されている。
それより先の神亀6年(729)に起きた長屋王の変では、大伴旅人(たびと)が事件前後に九州の大宰府へ左遷されている。
遥か九州へ流されてしまった旅人だったが、旅人は万葉歌人として名高く、「令和」の元号につながる歌が詠まれた梅花の宴を開いた人物としても知られる。
旅人の子の家持は『万葉集』の編纂の中心人物とされ、自らも歌人として活躍している。
家持が陸奥国で没した直後に藤原種継暗殺事件が起き、家持は首謀者の1人とみなされ、故人だが官位を剥奪された。種継は平城京から長岡京への遷都を主導した人物だが、大伴氏は遷都に不満を抱いていたとみられる。事件後には大伴真麻呂が死罪に処されるなど、大伴氏一族の多くが処罰された。