中臣氏

中臣氏、藤原姓を賜る

ヤマト王権の神事や祭祀を司る

神話上の存在でもある

中臣氏は、古代の日本において忌部氏と共に神事や祭祀を司った氏族。
氏名は「神と人の中を執りもつ臣」を意味する「ナカツオミ(中臣)」が「ナカトミ」に変化したもの。
天照が隠れて世界が闇に覆われたとき、祝詞を奏上して引き出すのに貢献したアメノコヤネ(天児屋根命)を祖とする。
中臣氏の後継氏族である藤原氏の氏神・春日大社の祭神は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)から鹿に乗って奈良にやってきたと伝えられる。
(中臣氏は神話と歴史の境目の存在であり、日本書紀の記述や伝承を全て史実ととる事はできない)

アメノコヤネ(天児屋根命)を祖とする

本拠地は河内国河内郡が有力で大阪府東大阪市にはアメノコヤネを主祭神として祀る神社がある。
他にも摂津国三郡が有力拠点の1つとされる。
常陸国が出身という説もあるが、中臣氏の系図には記載がない。
『日本書紀』の十一代・垂仁天皇の条には、中臣氏の祖であるクカヌシという人物が卜占を行ったことが記されている。
十九代・允恭天皇の代には、大王の誘いを拒む女性の説得を命じられた人物として、中臣烏賊津の名が出てくる。

中臣鎌子 〜 崇仏派

崇仏・排仏論争では、中臣鎌子が物部尾輿と共に仏教受容に反対した。
三十代・敏達天皇の代には、中臣勝海が物部守屋と共に「疫病が流行したのは蘇我氏の仏教信仰のせい」と奏上している。
その後、守屋の挙兵に呼応し、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。
しかし、少し経ってから反乱計画が成功しないだろうと予感し、押坂彦人大兄皇子の宮に入る。
そして、門を出たところで迹見赤檮に殺害された。

中臣氏は常陸国(茨城県)出身

中臣氏で最も有名な中臣鎌足は『日本書紀』では644年(皇極天皇3年)に初めて歴史に現れる。
祭祀の管理を司る職に任じられたが、病気を理由に固辞し、摂津国三嶋郡に退去した。
藤原氏の歴史書である『藤氏家伝』では大和国高市郡の出身としているが『大鏡』では常陸国(茨城県)出身と記述されている。
『藤氏家伝』は鎌足の曾孫である仲麻呂が記したものであり、一族が地方出身という不都合な事実を隠そうとしたとも考えられ、茨城県出身説が有力。

鎌足が死の前日に藤原姓を賜る

乙巳の変で蘇我氏を滅ぼす

『日本書紀』によれば、蘇我氏打倒を志していた鎌足は蹴鞠の催しの場で中大兄皇子に近づいた。
そして二人は乙巳の変で蘇我本宗家を滅ぼし、鎌足は内臣に任じられた。
654年(白雉5年)には大臣の地位を示す紫冠を授かり、中大兄皇子の側近として確たる地位を築く。
669年、鎌足は大織冠と藤原姓を賜り、その翌日に死去した。

鎌足以降も中臣姓も存続

鎌足が藤原性を与えられたのを受け、中臣氏の人たちは藤原姓を称した。
だが698年、藤原姓は鎌足の子である不比等とその子孫のみが称するものとなり、それ以外の一族は中臣姓に復した。
不比等が成長するまで暫定的に藤原氏の氏上を務めた意美麻呂も中臣姓に戻っている。
これにより、従来の中臣氏と不比等系の藤原氏が分立した。

大中臣姓

中臣氏は御食子(一門)、国子(二門)、糠手子(三門)の系統があるが、最も隆盛したのは二門である。
意美麻呂の子・清麻呂は政界での活躍が認められ、769年(神護景雲3年)に大中臣姓が賜与された。

中臣氏に所縁のある豪族

大中臣氏
大中臣氏は神祇伯を世襲する家系で、天皇の即位儀礼で「天神寿詞」という祝詞を詠み上げる役割を担ってきた。
また有力神社への奉幣使も務めた。平安時代中期には白川家が神祇伯を世襲するようになり、大中臣氏は伊勢祭主や神祇大副を世襲した。
志斐氏
中臣氏系列の氏族で本拠地は和泉国。中臣氏の一族の中に「強い語り」に従事する者がいたのが氏の由来とされる。
奈良時代に活躍した志斐三田次は暦算の第一人者で「算術に優れた者」とされた。
殿来氏
中臣氏系の氏族。大阪府高石市にある等乃伎神社は、殿来竹田売が祖先のアメノコヤネを祀ったのが起源とされる。
アメノコヤネの末裔を称した和泉国の氏族には、他にも狭山氏・倭太氏・志斐氏・蜂田氏・大鳥氏などがある。
高円氏
760年(天平宝字4年)、石川広成が高円姓を賜ったのを始まりとする氏族。
広成は四十二代・文武天皇と石川刀子娘の間に生まれた皇子だったが、藤原氏の力が影響して皇族を奪されたという説がある。
「広世」の名もあり、広成と同一人物だったとも、兄弟ともいわれる。

乙巳の変、鎌足は黒幕ではなかった説

『日本書紀』では、中大兄と鎌足が乙巳の変を主導したように描かれているが、乙巳の変後に三十六代・孝徳天皇となった軽皇子を変の首謀者とする説がある。
当時、周辺諸国への進出を進める唐に危機感を抱いた軽皇子は、朝鮮半島の新羅や百済にしか目を向けない蘇我氏との対立を深めていた。
また蘇我氏は次期天皇として古人大兄皇子を推していた。
こうしたことから乙巳の変の黒幕は軽皇子であり、中大兄や鎌足は実行犯に過ぎなかったとも云われる。


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