古墳が巨大化した理由と効果

日本の古墳が巨大化した経緯

世界屈指の巨大建造物となった日本古墳

国内外に対して国力を明示することが可能

日本の古墳は世界屈指の巨大建造物となる程に巨大化した。
それはヤマト政権の権力者が自分達の権威と権力を誇示する目的だった。為政者たちは自身の住居や墓を大きく築く事でその国力を示したのだ。
巨大古墳を築造する事は、単に自己満足ではなく対外的な効果を持っていた。
大陸や朝鮮半島からの渡来人たちは巨大古墳を見て驚いたという。国外に日本の国力の程度を示すうえで効率が良かったのだ。

平野広がる台地に【人工の山】が出現

古墳時代、まだ高層建築物が存在しない時代

古墳時代の日本列島にはまだ高層建築物は何もなく、ただただ平野が広がっていた。
その何もない平野や丘陵が広がる大地に築かれた巨大古墳は、当時の人たちにとっては「人工物とは思えない」ほど巨大で、自然の山のような存在だった。

世界史あるある「巨大建築物の築造」

古代エジプトのピラミッド、中国の始皇帝陵

情報を伝える手段が乏しかった古代において、為政者が自らの権威をわかりやすく示すために行ったのが、巨大な建造物や墓の建造だった。これは万国共通のもので、古代エジプトではピラミッド、中国では始皇帝陵が築かれている。

権力者が権威を示すため巨大な建造物や墓を築く

中国の歴史書『漢書』には、次のような話がある。
漢を建国した劉邦の時代、丞相の蕭何は長安の都に壮麗な未央宮を造営した。苦労人である劉邦は、「天下がまだ不安定なのに、このような宮殿を建てるとは、一体どういうことだ」と蕭何に対して激怒した。これに対し、蕭何は「壮麗に造って威光を示さなければ、諸侯や民は従いません。天下を安寧に導くために必要なことなのです」と答え、劉邦を納得させた。

巨大古墳は国内平定に役立っていた

国力(生産力)の差を【視覚的】に示した巨大古墳

畿内から全国に影響力を拡げたヤマト王権も、政権の巨大な力を示すために巨大な前方後円墳を築いたと考えられる。
日本全国の古墳の大きさランキングを見ると、上位古墳の多くが畿内のものである。
古墳の規模は、その地域における権力(国力・生産力)の大きさも示している。
地方の人々が畿内を訪れれば、その巨大な古墳を目にして「ヤマトには敵わない」と視覚的に理解した事だろう。

地方でもヤマトを真似て【前方後円墳】が築かれた

地方の首長も同様で、ヤマト王権とのつながりをアピールするため、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳を築いていたとみられる。
大きさは畿内ほどではないが、それでも自らが支配する近隣の人々を威圧するには十分な大きさだった。

4世紀、巨大古墳の建築ラッシュ

最初の巨大古墳は卑弥呼の時代のもの

箸墓古墳が最初の巨大古墳

畿内における巨大古墳の先駆けといえるのが、3世紀の中期から後半の築造と推定される箸墓古墳(奈良県桜井市)である。
全長約280メートルの前方後円墳で、これがヤマト王権の発祥とみられる。(この箸墓古墳は邪馬台国の女王卑弥呼と同年代の古墳であるが、卑弥呼の墓であるかは決定打に欠けている)
奈良盆地南東部にはその後も巨大な古墳が次々と築かれた。
また、標高467.1メートルの三輪山は、この辺りに住む人々の心の拠り所となった。

少しずつ動いて行った巨大古墳群(の建築地)

しかし、4世紀後半になると奈良盆地南東部での巨大古墳の築造が停止する。
新たに奈良盆地北部で巨大古墳が築かれ、佐紀石塚山古墳(奈良県奈良市)などの佐紀盾列古墳群が形成された。
また、盆地南西部の馬見・葛城地方にも古墳群が形成され、4世紀末には西の河内平野で巨大な前方後円墳が造られるようになった。

古墳時代は【空白の4世紀】で謎だらけ

なぜ古墳の築造地域が動いたのかは分かっていない

巨大古墳の築造地域の変遷については「ヤマト王権の力が西にも及び、現地の人々に王権を誇示する狙いがあった」「ヤマト王権の盟主が河内系の人物に替わった」など、さまざまな説がある。
この頃の日本列島の動向は中国の歴史書に書かれておらず、「空白の4世紀」と呼ばれる。
ヤマト王権の成立過程をあやふやにしている最大の要因でもあり、古墳群の移動や古墳の規模から推測する必要がある。

巨大古墳の対外的な効果

5世紀ごろ、超巨大古墳の築造

全長525メートルの大仙古墳

河内平野の百舌鳥・古市古墳群では全長525メートルの大仙古墳(大阪府堺市)、全長425メートルの誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)など、それまでの巨大古墳をさらに上回る超・巨大古墳が築かれている。
この超・巨大古墳築造は、国内だけでなく対外的な効果も狙ったという説がある。

海外からの渡来人たちの目につく場所に巨大古墳

5世紀は大陸や朝鮮半島との交流が盛んな時代で、渡来する人も多かった。
当時、海外から畿内に至るには、瀬戸内海を東進して住吉津から上陸するのが一般的だった。
そのルート上には、紀淡海峡に面した西陵古墳(大阪府岬町)、明石海峡を見下ろすように位置する五色塚古墳(兵庫県神戸市)などがあり、来訪者を驚かせた。

巨大古墳が外交圧力になっていた

その後、河内に近づくと巨大な大仙古墳や誉田御廟山古墳が現れる。
当時の海岸線は現在よりも内陸側にあったので、船から巨大な古墳を見ることができた。
外交は今も昔も【圧力】が大事なので、巨大古墳はヤマト王権の強大さを印象付けるのに最も効果的だったのだ。

やがて巨大古墳の築造は終息していく

巨大前方後円墳は墓であると共に、国内外に力を誇示するための巨大モニュメントでもあった。
しかし、大王の権力が確立して政治権力が安定すると、それに反比例して古墳の小規模化が進んでいった。
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