息長氏(おきなが)は古墳時代頃の日本において、琵琶湖の水運で繁栄した氏族。15代応神天皇(大王)や26代継体天皇(大王)と関係が深いとされる。息長氏の祖・意富富杼王は継体の曽祖父であり、つまり継体も息長氏の出身となる。継体以降の現代まで続く天皇家も息長氏を祖とすることになる。また、文献史料上は9代開化天皇・ヤマトタケル・トタチバナヒメ・神功皇后らも息長氏(息長)との関わりが記される。
684年、40代天武天皇の代に「八色の姓」が制定され、姓が再編成された。
真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の8つで、上位の4姓が上級氏族に与えられた。旧来の姓(臣・連など)の上に新しい姓を作ることで、新たな時代の到来を知らしめた。
八色の姓における最高位の姓は真人であった。
八色の姓における最高位の姓は真人で、授かったのは、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に限られた。
天武天皇が目指す皇親による政治を象徴する身分で、『新撰姓氏録』に記載された真人姓は48氏に限られている。
この真人姓を称した氏族の1つに、近江国坂田郡息長を本拠とした息長氏がある。
『古事記』15代応神天皇の段では、息長氏の祖を応神の孫・意富富杼王としている。詳しい事情はわからないが、「三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫の米多君、布勢君などの祖」と伝わる。
一方で、『上宮記一云』では、意富富杼王は継体天皇の曾祖父とされている。
『古事記』と『上宮記一云』の2つの史料を照らし合わせると、息長氏は継体天皇と同祖の関係ということになる。
6世紀以降の天皇は継体の末裔なので、皇室ともつながりが深い氏族だったことがうかがえる。
三韓征伐などで知られる神功皇后は、息長氏の出身とされる。(ただし神功皇后そのものがあまり実在性は高くない)
神功皇后は『古事記』では名を息長帯比売命といい、父は9代開化天皇の玄孫・息長宿禰王である。
また、倭建命と正妻(『旧事本紀』では橘媛)の間に息長田別王という子がいて、その後裔は応神天皇の妃・息長真若中比売である。
30代敏達天皇の頃まで、記紀には息長系の名を持つ王族がたびたび出てくる。
しかし、皇極朝の頃からは「息長君」と称するようになり、6世紀末から7世紀前半の間に王族から君姓の氏族に転じたとみられる。
とはいえ、王族とのつながりが深かったので、八色の姓で真人姓を与えられたと考えられる。
他の息長氏の人物には、舒明天皇の「日嗣の訣」を奉った息長山田、遣新羅使に任じられた息長老などがいる。
一方で、日本史学者の岡田精司氏は、「継体天皇はそれまでの王統とは血縁がない、近江の地方豪族の出身だった」と主張し、その地方豪族が息長氏だったと述べている。
「応神天皇の5世孫」とする継体天皇の系図には疑問が持たれており、さらに継体天皇の出身地である越(こし)と息長氏の本拠とされる近江国坂田郡は、琵琶湖を通じて近しい関係にあった。
坂田郡の南にある天野川流域には、全長約45メートルの山津照神社古墳や全長約46メートルの塚の越古墳、全長約51メートルの人塚山古墳などが、5世紀末から6世紀後半にかけて築かれている。
さらに、琵琶湖の西岸にある滋賀県高島市の田中王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王の墓とされている。
仮に継体天皇が息長氏の出身だったのであれば、息長氏は琵琶湖を囲むようにして繁栄を築いたことになる。とはいえ、史料的な裏付けはないに等しく、あくまで諸説の1つである。