神話の時代のヤマト王権

神話のなかのヤマト王権

このページでは初代・神武天皇から14代・仲哀天皇と后の神功皇后の時代までを「神話のなかのヤマト王権」として扱う。

目次

神話の時代に生まれたヤマト王権

ヤマト王権の歴史は神話の時代に遡る

イザナミとイザナギ国生みによる日本誕生の神話から、天皇たち人間の歴史へ。神武天皇と欠史八代を経て、『古事記』『日本書紀』が伝える歴史物語は、より現実的で具体的な内容へと変化していく。
これにつれてヤマト王権は、幾代もの天皇(大王)の登場により、全国的な統一政権へと変化し、日本という国を形づくっていく。

初期は「天皇」ではなく「大王」だった

初代・神武天皇は学術的には実在の人物とは考えられていない。
また、「天皇」という称号は40代・天武天皇が使ったのが初めとされ、それまでは「大王」という号が使われていたようだが、その大王号もいつから使われていたのか定かではない。
このページでは基本、「天皇」で統一して表記する。

『古事記』と『日本書紀』は参照に注意が必要

記紀」(古事記日本書紀)に記される歴史のなかでは初代・神武からいきなり「天皇という称号を使っていた」事になっているが、これも確実に【史実ではない】といえる。
神武の東征も即位も、神の娘と結婚した、という話も史実ではないだろう。
かと言って、他に文献史料が残っておらず、ヤマト王権(政権)の成立ちを語る上で、この「記紀」の記述を参照することは避けられない。

ヤマト王権と邪馬台国の関係

ヤマト王権と『魏志倭人伝』に記録される邪馬台国(2〜3世紀に日本に存在した国)、および女王卑弥呼との関連性は分かっていない。そして、この問題は、今後いくら研究が進んでも明かされる見通しが立っていない。
>> 邪馬台国とヤマト王権の関係

史実は【空白】となっている王権誕生の歴史

中国の歴史書『宋書』(488年完成)に当時の日本のことが記されており、こちらは「記紀」に比べて信憑性の高い史料であるが、肝心の初期のヤマト王権に関して詳しい記述はない。
『宋書』以前の初期ヤマト王権の時代を「空白の4世紀」(266年〜413年)と呼び、この空白の4世紀の出来事に関して、文献史料としては「記紀」を参照するしかないのが実情である。

25代武烈の時代まで分からない事だらけ

特に25代武烈天皇までの時代は謎の次もまた謎で、記紀にある生没年、在位年や血統も不確かなうえ、非現実的な神話性も払拭されていない。歴史が現実味を帯びていくのは26代継体天皇からだ。

天皇世襲の始まり〜神武から綏靖へ

大和を平定した初代・神武天皇が橿原で即位

「記紀」によれば神武こと【イワレビコ】は、九州から大和へ遷ったという東征の後、奈良盆地を平定し、橿原で即位したという。

二代・綏靖天皇が即位しヤマト王権が成立

即位後、イワレビコは正式に「天皇」と名乗り、三輪山のオオモノヌシ(大物主神)という神の娘(ヒメタタライスズヒメ)と結婚し、2人(or2人)の子を設けたが、その末子のカンヌナカワミミ(神渟名川耳)が二代・綏靖天皇として即位する。
ここに、初代天皇と息子の二代天皇という、天皇の世襲が完了し、これよりヤマト王権の歴史が始まる。
というのが、神話上のヤマト王権の始まりである。(当然、これもそっくりそのまま史実と受け取ることは出来ない)

欠史八代〜2〜9代天皇は不実在か

2代〜9代の天皇は事績が記されず

王家(皇室)の系譜は、東征伝説の主人公である初代・神武天皇と十代・崇神天皇との間に八人の天皇(大王)を置いている。ところが、この「欠史八代」と呼ばれる天皇の実績が全く伝わっていない。

系譜や陵墓は記されている

系譜と各代の天皇の陵墓と都の位置は記されており、政治的な意図を含めて記された可能性も疑われる。

「記紀」の基となった『旧辞』と『帝紀』

『古事記』や『日本書紀』には欠史八代の家族関係を中心とした系譜だけが記されている。 『古事記』などは、王家(皇室)の系譜を記録した『帝紀』と、ヤマト政権の古い伝承を集めた『旧辞』をもとにまとめられたものだが、これをそのまま受け取ると「欠史八代の天皇は『帝紀』の中にだけでてくる天皇だった」とも考えられる。
ただし、『旧辞』と『帝紀』に関しては完全に紛失しており、本当に存在したのかも定かではない。

二代綏靖は【三輪山の神】の血筋

オオモノヌシ(大物主神)〜初期天皇の守り神

カンヌナカワミミ(神渟名川耳:綏靖天皇)がタギシミミ(当芸志美々命:異母兄、神武の長子)を滅ぼした後、二代天皇として即位したわけであるが、この話もそのまま史実として受け取ることは出来ない。
二代綏靖はオオモノヌシ(大物主神)という三輪山の神の血を継いだ天皇であったとされ、ここにも政治的な意図が働いて、このように歴史が記されたのかも知れない。(三輪山はヤマト王権の本拠地で、オオモノヌシは初期天皇の守り神だった)
>> オオモノヌシ信仰への転換 >> 天皇の始祖が天照である理由

倭根子(やまとねこ)〜国の根の子

「倭根子」という諡号が幾人もの天皇に贈られる

欠史八代の天皇で「倭根子(やまとねこ)」の敬称を含む名前をもつ人物が何人かいる。 この「やまとねこ」の敬称は、41代持統天皇から44代元正天皇の諡名(おくりな:諡号)にみられるものだ。 天武天皇の皇后で、天武天皇の次の天皇になった持統天皇の諡名は「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)」である。

やまとねこ〜日本の国の守り神(根)の子、意

天武天皇のときに、天皇を「日本の国の守り神(根)の子」という意味の「やまとねこ」の敬称で呼ぶ習俗がつくられたのであろう。 そのため天武天皇の親族が、好んで「やまとねこ」と名乗った。

欠史八代とは天武期に創られた存在か?

「記紀」の編纂を命じたのは天武天皇で、その天武の時代の天皇たちが「やまとねこ」の敬称を望んで使い、欠史八代の天皇の名前にも「やまとねこ」が用いられている。 果たしてこれは偶然なのか。欠史八代という存在そのものがこの時代に成立したことを意味する、と考える論者もいる。

2〜4代は神族と結婚を繰り返す

欠史八代は系譜が2系統に分かれる

欠史八代の天皇は、大きく二つの世代に分けられる。
一つは、天皇家をオオクニヌシ(大国主神)に結びつけて権威づけている世代で、2代・綏靖天皇、3代・安寧天皇、4代・懿徳天皇の3人がそれに当たる。

親神オオクニヌシと子神コトシロヌシと縁戚に

『日本書紀』には綏靖天皇の后がコトシロヌシ(事代主神)の娘で、次の安寧天皇の后はコトシロヌシの孫の鴨王の娘の渟名底仲媛命としている。(コトシロヌシは、大国主神の最も有力な子神)
懿徳天皇は姪の天豊津媛命を后にした。彼女の父にあたる息石耳命は安寧天皇と渟名底仲媛命の間の子だから、懿徳天皇の后もオオクニヌシの流れをひくことになる。

欠史八代の結婚と豪族の興り

オオクニヌシ系の神と縁戚となることで天皇家の権威を補強しつつ、蘇我氏ら有力豪族にも都合が良い系譜に出来上がっている

5代以降、天皇家から豪族が枝分かれ

天皇家と神々との結婚は4代までで終わり

5代・孝昭天皇のあと、オオクニヌシの流れをひく后がみられなくなる。
さらに孝昭天皇の代から中央の有力豪族の祖先とされる皇子が登場するようになる。
つまり、古代天皇における神話的な要素がやや薄くなり、人間(豪族)の歴史としての要素がやや濃くなる。

吉備・葛城・蘇我など有力豪族の祖が次々誕生

5代・孝昭天皇は、6代・孝安天皇と春日氏らの祖先にあたる天押帯日子命の父とされる。
そして次の7代・孝霊天皇の2人の皇子が吉備氏の先祖で、8代・孝元天皇の皇子から阿倍氏や葛城氏蘇我氏が起こったという。

9代開化から皇族同士の政争が始まる

さらに9代・開化天皇の皇子の日子坐王の子孫は有力な皇族となった。
日子坐王の娘・沙本毘売命(さほひめ)は11代・垂仁天皇の后となる。

欠史八代の時代に現実的な政治情勢が出来あがる

欠史八代とは、以降の天皇たちが、自分たちの時代における政治情勢との辻褄を合わせるために創った存在のように思える。
始まりは神々ばかりと結婚する非現実的な話であるが、徐々に「豪族との縁戚関係」「皇族同士の争い」と現実的な話に移行していくのだ。
これらの流れの全てが史実に反するとは言わぬまでも、有力豪族を王家の分家とするよう系譜が意図的に調えられた、という可能性は高い。

10代崇神〜2人目の最初の天皇

最初の天皇「ハツクニシラススメラミコト」

日本の正史としては、神武天皇が初代天皇とされ、そのために『日本書紀』では、神武天皇に「ハツクニシラススメラミコト」の尊称を用いている。(「ハツクニシラススメラミコト」とは「初めて国を治めた天皇」の意とされる)
ところが、ここで日本の正史を矛盾を見せる。もう一人、ハツクニシラススメラミコトの尊称で呼ばれる天皇がいる。それが10代・崇神天皇だ。(崇神大王とも)
崇神天皇が実在下ならば3世紀半ばに活躍したとみられ、つまり邪馬台国の卑弥呼と同年代の人物ということになる。(ただし両者の関係性は不明)

2世紀末、纏向に崇神天皇(?)の都が誕生

ヤマト王権(政権)は、纒向遺跡が出現した2世紀末に誕生したと考えられることが多い。
崇神天皇はこの纏向に発祥した初期ヤマト王権の主であった可能性も指摘される。(が、特に物証があるわけではない)
そして桜井市の箸墓古墳が築かれた3世紀なかばに纏向都市は大きく発展した。

箸墓古墳〜崇神を補佐した巫女の墓とと伝わる

箸墓古墳は全長278mの、日本最古の大型前方後円墳である。そして、箸墓古墳は崇神を補佐した夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメ)という巫女を葬ったと伝えられる墓でもある。
この箸墓古墳は卑弥呼の墓だったという意見もあるが、これは「ヤマト王権の最初の古墳と思われるから卑弥呼が眠っているのでは」という発想から来ているもので、明確な根拠があるわけではない。

崇神の実名は「ミマキイリビコイニエ」

崇神天皇の実名は「御真木入日子印恵命(ミマキイリビコイニエ)」であったと伝えられる。
このなかの「イリビコ」は、3世紀から4世紀はじめにかけての有力な天皇が用いた敬称であると考えられている。

崇神がオオタタネコ(神)を祀り疫病が鎮まる

ヤマト王権には、崇神天皇が疫病を鎮めるためにヤマトトモモソ姫に三輪山の神を祀らせたとする伝承があった。オオモノヌシが崇神の夢のなかに現れ「疫病を鎮めるために我が子(子孫)オオタタネコを祀らせよ」と告げたとい五、言われたとおりにすると疫病が鎮まったという。
なお『古事記』には、オオタタネコ(意富多多泥古)の話しか記されていない。

纏向遺跡でも大規模な祭祀が行われていた

纒向遺跡の発掘からも、崇神天皇の時代に相当する時期にヤマト政権の祭祀の整備が進み、大規模な神事が行われるようになったことが分かっており、纏向が崇神の都だったと考えても辻褄はあう。

天照大神を伊勢神宮の地へ遷座

崇神は疫病の流行を背景に、天照大神と倭大国魂神を殿内に祀るのをやめ、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら:現在の檜原神社)に移した。これが後に伊勢神宮の誕生へと繋がっていく。

各地に四道将軍を派遣し支配地域を広げる

疫病を鎮めた後、崇神天皇は各地に四道将軍という皇族将軍を派遣したという。崇神天皇はヤマト王権を発展させた功績を讃えられ、ハツクニシラススメラミコトと呼ばれた。

120〜168歳で亡くなった

崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』では戊寅年12月崩御、168歳)した。

11代垂仁天皇〜出雲大社の建立

垂仁は崇神の子、父の勢力拡大を受け継ぐ

崇神天皇の後を受けた11代・垂仁天皇は実年代としては3世紀末の天皇だったと考えられる。
垂仁天皇の実名を「伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチ)」という。
垂仁天皇は、父・崇神と同じくイリビコの称号をもつ天皇であった。
崇神天皇の時代に始まるヤマト政権の勢力圏の拡大は、3世紀末にも続いていた。

新田開発・生産力拡充・外交に力を入れた

垂仁は崇神の政策を引き継ぎ、生産力の拡充や、新羅など、海外との交流を積極的に行ったという。特に水田開発に熱心で、河内の高石池、大和の狭城池など、諸国に800余りの池・溝をつくったとされる。

伊勢神宮の創祀は垂仁の時代ともいわれる

伊勢神宮の創祀はこの時代だったという(異説もある)。天照大神に奉仕していた垂仁の第4皇女・倭姫命(ヤマトヒメ)が鎮座すべき地を求めて諸国を歩き、最終的に神託を受けて五十鈴の川上(三重県伊勢市)に祠を建てたとされている。

垂仁の后・サホヒメが兄の叛意を伝えてくる

垂仁天皇の時代の伝承の中で、サホビコ(沙本毘古王)の反乱の話と、それに続く物言わぬ王子の話が注目される。
垂仁天皇は自分の従妹にあたるサホヒメ(沙本毘売)を后にしていたが、サホヒメの兄のサホビコが妹に刀を渡し天皇を刺すように頼んだ。しかし、沙本毘売は夫を害することができず、兄の叛意を垂仁天皇に打ち合けた。

后が兄のもとへ行き、そこで天皇の子を生む

それを聞いた垂仁天皇は、大軍を動員して義兄・サホビコの砦を攻めた。このときサホヒメは兄を見捨てられず1人で兄の砦に入った。そして彼女は砦の中で垂仁の子のホムチワケ(本牟智和気命)を生んだ。

后が赤子を天皇に託すも、皇子は言葉が話せず

沙本毘売は、砦が焼き打ちされる直前に息子を夫に託した。
しかし母を失った皇子は、言葉が話せなかったという。

物言わぬ御子と白鳥の説話

垂仁天皇はサホヒメの忘れ形見の子供を大切に育てたが、ホムチワケ(本牟智和気命)は大人になっても言葉を話すことができなかった。ある日、白鳥の鳴き声を聞いた御子が言葉サホビコを話す素振りを見せたため、天皇は山辺之大鶴に、その白鳥の捕獲を命じた。山辺之大鶴はサホビコ白鳥を追いかけ捕獲に成功したが、白鳥を見ても御子が口を利くことはなかったという。

出雲に大社を建てると皇子が話せるようになった

結局、話す事ができなかった我が子のことで、垂仁天皇が悩んでいると「出雲の社を建て直しなさい」というオオクニヌシの神託が下った。
そこで出雲に大社を造営したところ、皇子は話せるようになったという。

垂仁の時代に出雲が併合された説

唐突にでてきた出雲大社建立の話

このエピソードはどうとらえるべきであろうか。
后が兄のもとに逃亡した後に、そこで子を生む。生まれた子供だけが天皇のもとに帰され、そこで育つ。
ここまでは、のちの歴史のなかでも比較的あるあるな話ではあるだろう。
しかし、生まれた皇子が言葉が話せず、出雲に社を建てたら話せるようになった。という話はそのまま受け取ることは出来ない。
唐突に出てくる出雲大社の話だが、一説にオオクニヌシの「国譲り」はこの頃という。

垂仁天皇が出雲の政治に干渉していた

垂仁の代物部十千根大連が出雲に赴き、出雲の政治力の象徴である「神宝」を管理させた、と伝えられている。これをもって出雲がヤマト王権に臣従したという見方がある。

出雲の力比べ神話の源流が垂仁にあり?

出雲の勇士だった野見宿禰が、垂仁の命で当麻蹴速と角力をとり、蹴速を踏み殺したという話もある(相撲起源説話)。
宿禰は垂仁の側近となり、それまでの殉死の風習に代わり、埴輪を用いることを進言し、容れられたとも伝わっている。
垂仁を「仁を垂れる」漢風諡の由来はこのエピソードに基づいたものともいう。
宿禰は土師臣の姓を与えられて土師氏の祖となった。

兄との死を選んだサホ姫の悲劇

サホヒメの事件について時系列順にまとめる。

@兄の命で天皇暗殺を企てる
兄のサホビコと仲が良かったサホヒメは、兄から夫・垂仁天皇の暗殺を命じられる。サホビコから渡された小刀で昼寝をする垂仁天皇を刺そうとするが、慕情がこみ上げできない。
A兄のもとで天皇の御子を出産
サホビコの謀反を知った垂仁天皇はサホビコの城に軍勢を差し向ける。それを知ったサホヒメは兄の城に密かに駆け込むと、兄と共に籠城。やがて城内で垂仁天皇の御子を出産する。
B天皇のもとに戻ることを拒否
サホヒメと御子を連れ戻すよう命を受け兵が派遣された。しかしサホヒメは連れ戻されないよう剃髪しカツラをかぶり、兵に引っ張られてもちぎれる衣装に身を包んでいたため失敗。サホヒメは、兄と共に死ぬ覚悟を決めていた。
C御子に名をつける
サホヒメの覚悟を悟った垂仁天皇は軍使を使いに出して、御子の名前や養育方法、次の皇后の候補者選別などさまざまな質問をした。しかしサホヒメの意思は固く、最後まで気持ちが変わることはなかった。
D紅蓮の炎に包まれるサホヒメ
とうとう質問することもなくなり、覚悟を決めた垂仁天皇はサホビコの城に火を放ち、攻撃を開始する。サホビコは戦死、サホヒメは炎に包まれながら自害した。

12代景行天皇〜ヤマトタケルの父

ヤマト政権の勢力を飛躍的に拡大させた

12代景行天皇は11代垂仁天皇の第三子で、ヤマトタケルの父でもあった。
熊襲・蝦夷を討伐し、辺境にまで勢力を広げた。
在位期間は60年間で、106歳(古事記では137歳)で没したとされている。
>> 第12代 景行天皇の詳細

子・ヤマトタケルが各地を平定

景行の第二皇子・ヤマトタケルが九州の豪族を討伐しこれを平定、さらに東国征伐によりヤマト王権の支配地域を更に広げるなどの活躍を見せる。が、景行天皇の活躍はヤマトタケルに比べれば薄い。
景行天皇とヤマトタケルは同一人物だった、2人とも存在しなかった、といった否定的な意見もある。
>> ヤマトタケル

ヤマトタケルと神功皇后の関係

12代〜14代の天皇はついでのような存在となっており、この時代はヤマトタケルと神功皇后の二人が歴史を動かしている。二人の時代は時系列的には連続しており、まるで本当の父娘のようである。しかし、悲劇的な最期を迎えたヤマトタケルと、偉大な15代天皇を生みだした神功皇后と、両者が迎える結末は真逆のものであった

13代成務天皇〜行政組織の整備を進める

事績は薄く、神話的要素が強い14代成務天皇

13代成務天皇は景行天皇の第四子で、ヤマトタケルの異母弟にあたる。
兄ほどの目立った伝説はない。在位60年、107歳で没したとされる。実年代は4世紀の中頃と考えられる。

景行〜政務の時代に国内統一が前進

成務の事績として注目されるのは、政治組織の整備である。
景行天皇とヤマトタケルの伝承が示すように、この時期のヤマト政権は国内の統一事業が飛躍的に進んだ。

武内宿禰を大臣とし、地方の支配制度に取り組む

成務天皇は中央の組織づくりと地方の支配制度に取り組んだとされている。
まず国政を担う者として武内宿禰を「大臣」とした。
武内宿禰は伝説的な大臣で、神功皇后にも仕え、のちの蘇我氏などの祖ともされる。

造長・県主・稲置など地方の行政区画が作られる

領域の拡大により、天皇ひとりの裁決システムに限界が表れてきたことを物語るものとみられる。また地方に国郡・県邑といった新たな行政区画を導入し、それぞれの長(造長、県主、稲置など)を定めたとされる。

武内宿禰と仲が良かった成務天皇

武内宿禰は初期のヤマト政権の重鎮として、230〜280歳まで生きた伝説上の人物である。 成務と同じ日に生まれたので、ふたりの仲は非常によかったという。
以後、彼は歴史のキーマンとなるが、年齢からも見てもひとりの人間とは考えづらい。複数の人の事績を、宿禰ひとりに仮託した可能性もある。

14代仲哀〜神託を疎かにし病没

ヤマトタケルの子が即位、后に神功皇后

14代仲哀天皇はヤマトタケルの第二子であり、神功皇后を妃とした。
先代の成務に嗣子がなかったので政務が立太子された。日本書紀では誕生年を成務天皇18年(148)と記すが、ヤマトタケルの死から30年後の誕生となり、辻褄が合わない。
実在には疑いがあるが、実在していたとすれば、実年代は4世紀の後半と見られる。

后の神功皇后は新羅王子の血も継ぐ

神功は気長宿禰王(9代開化天皇の玄孫)の娘で、名を気長足姫尊といった。近江息長(滋賀県米原市)の生まれである。母は葛城高頼媛で、新羅の王子・天之日矛の5世の孫にあたるとされる。
「記紀」の編纂者は、神功皇后が卑弥呼だったと考え、注釈として記載している。※ただし、神功の実在については議論が多い

仲哀は、神のお告げを無視し為に病没した

都は景行、成務に続いて志賀の高穴穂宮にあった。筑紫の檀日宮(福岡市)で武内宿禰らと熊襲征伐を協議していたとき、神功が突如神がかって「熊襲よりも新羅を先に討て」と告げた。託宣を信じなかった仲哀は、神の諭しに従わなかったため病没した。

神功皇后の三韓征伐〜伝説的な活躍

神の力を借りて新羅・高句麗・百済を服属させる

残った神功は、神の言葉に従って宿禰とともに対馬を進発。風の神、海の神、魚の助けを借りて新羅へ向かった。船団が起こす波で新羅は水浸しとなったため、新羅王は降伏。これを知った高句麗王、百済王も降伏し、神功は戦うことなく三韓を服属させた。

露骨に歪曲された歴史

「三韓征伐」と呼ばれる話だが、史実としては否定的な見方が大勢だ。
ヤマトがこの時期に朝鮮半島に進出し、局地的な戦闘勝利があった可能性はあるが、三韓すべてを屈服させるだけの国力はなかったとみられる。この神話には当時のヤマト王権や、「記紀」を編纂した天武・持統朝の野心的なモノが滲んでいるとみられる。


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