弥生文化の2大中心地である北部九州と畿内に挟まれた吉備は、現在の岡山県や広島県東部、兵庫県西部、香川県島嶼部を支配した勢力である。
古代吉備(岡山県)は鉄と塩の一大生産地として栄えた。
吉備は鉄と塩の産地で、更に良港をもつという地政学的に優れた天然の要衝であった。
豪族・吉備氏(姓は朝臣)は地方勢力でありながらヤマトの王権に匹敵する力を持ち何度も反乱を起こしたとされる(四道将軍として崇神朝に吉備へ派遣されたとも)。
雄略天皇ごろにヤマト政権の支配下に入る。
巨大な古墳群と強大な勢力を有した吉備氏の歴史をまとめる。
「記紀」や『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、吉備氏の祖を7代孝霊天皇の皇子・稚武彦命(ワカタケヒコ:若日子建吉備津日子命)としている。(7代孝霊天皇は学術的には不実在と考えられている)
単一の氏族から上道氏(かみつみち)や下道氏(しもつみち)などの支族が生まれたという説と、吉備系諸氏族の総称を吉備氏とする説がある。
現在の岡山県南部を本拠とする吉備氏は、5世紀には地方豪族として最大の勢力を誇った。
吉井川、旭川、高梁川という3つの川によってつくられた沖積平野一帯に人々が住むようになり、発展していった。
吉備は瀬戸内海航路の要衝に位置し、吉備津という良港があった。(瀬戸内は海や山の幸が豊富な地域で、吉備では海部と呼ばれる人たちが水産業で活躍していた)
4世紀以降、ヤマト王権が朝鮮半島へ積極的に進出すると多くの船が寄港し、吉備の人たちも交易を行った。
鉄と塩の産地でもあったので(製塩土器も多数出土:中国山地では鉄生産が盛ん)、産業力も高かったと考えられる。
吉備の勢力の大きさは、この地に築かれた古墳を見ればわかる。
弥生時代後期から楯築墳丘墓のような首長の墓が築造され、特殊器台・特殊壺と呼ばれる大型の土器が並べられた。
楯築墳丘墓は全長約80メートルで、2世紀末の墳丘墓としては全国で最大規模である。
古墳時代には巨大な前方後円墳が相次いで築かれ、最も大きな造山古墳(岡山県岡山市)は全国4位の全長350メートル、立ち入り可能な古墳としては全国最大の規模である。
作山古墳は全国10位の規模を誇る。
被葬者は吉備の大首長とみられるが、大王墓とする意見もある。
墳丘は3段築成で、後円部の直径は約190メートル、高さは31メートル。
墳丘斜面は葺石で覆われ、円筒埴輪列がめぐっている。
造山古墳では、後円部東側から周濠の存在が確認された。畿内の百舌鳥・古市古墳群の広大な周濠に比べると規模は小さいが、畿内と同じ様式を有していたこともわかっている。
造山古墳には千足古墳や榊山古墳など6基の陪塚があるが、いずれも重要な役割を果たしている。
榊山古墳からは、朝鮮半島から伝えられたとされる馬形帯鉤(バックル)が発見された。
また、千足古墳には九州から伝わった形式の古い横穴式石室が2つあり、片方には直弧文(直線と円弧を組み合わせた文様)を彫刻した石障がある。
他にも、阿蘇溶結凝灰岩という九州の石材を用いたものもあり、吉備がさまざまな地域とつながっていたことを示している。
令和4年(2022)、この造山古墳の後円部墳頂から埋葬施設に伴うとみられる5つの板状の石が並ぶように出土した。石材は吉備の大型古墳の石室に用いられた香川県産の古銅輝安山岩とみられる。これらは石室の一部である可能性もあり、造山古墳で未確認だった埋葬施設が現存し、古代の吉備王が今も眠っている可能性が高まっている。
吉備氏は中央政界(ヤマト政権)ともつながりが深く、「記紀」では吉備氏の関係者が国内平定や対朝鮮外交で活躍した記述がある。
そのため、吉備氏は中央にも勢力を有し、完全な対立関係ではなかったと考えられる。
吉備はヤマト王権にも迫る力を有していたが、造山古墳や作山古墳をピークに、古墳の規模は徐々に縮小していく。
時期を同じくして、『日本書紀』雄略天皇条では、吉備氏の「反乱」が相次いで起きている。
雄略天皇7年には天皇への不忠があったとして、吉備下道前津屋が一族もろとも討たれた。
また、吉備上道田狭は妻の稚媛を雄略天皇(大王)に奪われ、朝鮮半島で反逆した。
そして雄略天皇が崩御すると、雄略と稚媛の間に生まれた星川椎宮皇子が反乱を起こした。という。
これらの記述がどこまで事実かは不明だが、この頃(5世紀後半〜6世紀前期)までに吉備が完全にヤマト王権の支配下になったとみられる。
やがて吉備地方にも屯倉や部民が設置され、吉備の独立性は徐々に失われていった。