イワレビコが日向から大和へ

神武天皇の東征伝説の背景

イワレビコ、のちに神武天皇となった彼は南九州の日向で生まれ、遥か遠方の畿内、大和を目指した。
天孫の子孫がなぜ危険を冒してまで大和を目指したのか?イワレビコは本当に日向で生まれたのか?
現代の歴史学ではヤマト政権は畿内の地(纏向遺跡)でおこったと考えられており、それは神武東征の否定でもある。
では神武の東征伝説とは何なのか?
歴史研究的な観点を踏まえた上で、神武の東征伝説をまとめる。

目次

「神話」と「歴史」をつなぐ伝説

天照の子孫が南九州から大和へ東征したという

アマテラス(天照大御神)の子孫の神々(ニニギら)は、南九州の日向に本拠を置いていたという。
しかし、日向三代と呼ばれる神々の後を受けたイワレビコ(伊波礼毘古:のちの神武天皇)は大船団を率いて、はるか東方の大和まで遠征した。
やがて大和の邪神や豪族たちを従え、初代の神武天皇として即位したとされる。

神武の東征から「人間の歴史」が始まる

『古事記』などの古代日本の歴史書は、神々の時代が終わり、次に始まる人間の時代の歴史を、神武東征から書き起こしている。
もちろん、神武の東征伝説はあくまで神話の延長上であり、基本的には史実であるとは考えらえていない。
この辺りは、近代の歴史研究において新たな説が唱えられている。

十代が初代、神武はあくまで伝説という説

天皇家は大和で興ったが、九州出身という話が盛られたか?

王家ではかつて、ヤマト政権は大和に起こったとされていた。そして十代崇神天皇が、最初の大王(後の人は天皇の敬称で呼んだ)として扱われていたらしい。しかし6世紀になり、王家の権威をより高めるために、王家の先祖が九州から大和に来たとする伝説がつくられた。磐余玉穂宮(奈良県橿原市)を王宮とした継体天皇にちなみ、磐余彦(伊波礼毘古)という英雄が創作された。

という論説もある。東征によりヤマト政権が九州から本州へ移った、という話は現実的には受け入れ難く、この「九州からやって来た初代、という伝説が創られた」というの説得力がある。

ハツクニシラス、最初の天皇が2人いる

『日本書紀』の本文に、「人びとが畝傍の橿原で即位したことを称えて、イワレビコを、始馭天下之天皇と呼んだ」という内容の『古語』が引用されている。この古語とは、長く伝えられた重要な伝承をさす。(始馭天下之天皇:ハツクニシラススメラミコト、最初の天皇のこと)
なお、そのハツクニシラススメラミコトとは、神武天皇と崇神天皇の両者のことを指しているとされる。つまり、最初の天皇が二人もいるというのだ。神武天皇は九州からやって来た最初の天皇で、崇神天皇は最初から大和にいた天皇である。

イワレビコはなぜ大和を目指したのか

日向で生まれたイワレビコが遠方の畿内を目指す

16年もかけて文化の先進地を旅したという

イワレビコ(伊波礼毘古)は、長い年月をかけて日向から大和へ移動した。
『古事記』は、日向を出たイワレビコが宇佐の豪族の持て成しを受けたとする。
そのあと、筑前に向かい、岡田宮で1年間過ごしたという。
この次に彼は安芸の多祁理宮に7年間滞在し、そこから備前の高島宮に進み8年間暮らしたという。
そしてようやく大阪湾へと船出するのだが、イワレビコは16年間も旅をしていたことになる。

古代天皇が長寿なのは「人間の時代との時間差」を意識したか

神々の時代のあとの人間の天皇が統治する時代を開くためには、長年の放浪が必要であったと考えられたのだろう。

日向は大和からみて神聖な地だった

大和の人々は南九州を見たことがなかったハズ

ヤマト政権の人びとは、はるか西に位置する日向を神聖な地とみていた。
その地の海岸の東方には果てしない海が広がり、海の彼方から太陽が昇る。

大和から日向へ、天孫降臨の伝説を託した(丸投げした)

このような地理をふまえて、黄泉国という死者の国から戻ったイザナギ(伊邪那岐命)が日向の橘の小戸で身を清めたとされた。
そのときアマテラスらが生まれた、と『古事記』は記す。
さらにアマテラスの孫のニニギ(邇々芸命)が、高天原から日向の高千穂の峰に降ったとされた。

179万2470年〜天孫降臨から東征まで

神武天皇137歳、綏靖天皇45歳

このニニギの曾孫、イワレビコがやがて神武天皇として即位する。
『古事記』などは古い時代の天皇が凡人よりも長寿であったとする。
その寿命は記述によれば、神武天皇の寿命が137歳で、次の綏靖天皇は45歳で亡くなったとされていた。
これに対して日向の三代の皇胤は、はてしない寿命をもつ神とされた。
『日本書紀』に、天孫が地上に降ってから神武天皇が東征を始めるまで「179万2470年余り」だったと記されている。

イワレビコが近畿に入ると、物語が詳細になる

近畿で創られた神話だから、近畿のことは詳しいのか?

イワレビコが、吉備と呼ばれた地域の中心地の高島宮を出たあたりから、神武東征伝説の記述は具体的な物語になっていく。
イワレビコの一行は、大阪湾の入口である速吸門(明石海峡)でサオネツヒコ(楠根津日子)を従え、彼を道案内とした。

ナガスネビコとの戦い

この戦いは本当にあったのかも知れない

ところが一行が大阪湾を渡って上陸しようとしたとき、強大な敵が現れた。
ナガスネビコ(那賀須泥毘古・長髄彦)の軍勢が、イワレビコらを攻撃してきた。

実際の戦いの話と、神話上の戦い話が混在している可能性

この戦いで、イワレビコの兄のイツセ(五瀬命)がナガスネビコの矢を受けて、まもなく亡くなった。
東征軍は西方から大和に入るのを諦め、紀伊半島の南方を迂回して東方から大和を攻めることにした。
しかしイワレビコが熊野に上陸すると、森の奥から大きな熊が現れる。
それを見た東征軍の一行は、揃って気を失ってしまったという。

神武の東征は、実際は「吉備の東征」だったとも

纏向遺跡がある以上、ヤマト政権は纏向発祥のはず

吉備を出たあとのイワレビコの行動が、ヤマト政権誕生時の何らかの記憶を反映するものであった可能性が指摘されている。
現在の考古学の成果から、2世紀末の桜井市纏向遺跡という有力な遺跡の出現が、ヤマト政権の誕生に相当するとされている。

吉備ではさらに一歩進んで文化が存在していた

その時点の吉備には有力な首長がおり、吉備の先進文化が多く纒向遺跡に伝わったとみられる。
つまり、吉備の有力な集団が大和に移住して纒向遺跡をひらいたことが、神武東征伝説と関わるのではないかと推測されている。

大和周辺の邪神&抵抗勢力との戦い

天照がイワレビコに助け舟をだす

高倉下、天照の意向で神剣を持ってきた

『古事記』は、イワレビコの一行が倒れているところに、高倉下(たかくらじ)という者が訪ねて来たと記している。
この高倉下は一振りの美しい剣を携えて来て、その剣をイワレビコに献上した。

神剣によって仲間たちが力を取り戻す

そのとき高倉下は、その剣は高天原から下されたものだと語る。アマテラスの意向で、タケミカヅチ(建御雷神)の愛剣を授けることになったという。
イワレビコがその剣を帯びると、彼に従う人びとは元気を取り戻した。剣の霊力が、東征軍を妨害していた熊野の悪神を退けたのだ。

物部氏と大伴氏、東征伝説の重要氏族

高倉下は【物部氏】の親族

高倉下は、中央の有力な豪族である物部氏の親族にあたる。
そして彼がもたらした神剣は、のちに物部氏の氏神である石上神宮の御神体とされて、布都御魂と呼ばれたという。

ヒノオミは【大伴氏】の祖先

このあとイワレビコは、高天原のタカミムスビ(高御産巣日神)から八咫烏という家来の神を与えられた。
その神は鳥の姿になり、東征軍の前を進んで、一行の道案内を務める。
『日本書紀』には、そのとき大伴氏の祖先・ヒノオミ(日臣命)が八咫烏の後に着いて、軍の先頭を進んだという。

ヒノオミ(大伴氏)が『位』を授かる

イワレビコ一行は、吉野の山道を越えそこの豪族たちを従える。その後、彼らは奈良盆地に入り、宇陀(宇陀市)の地に着いた。
このときイワレビコは、軍勢を導いたヒノオミの功績を称え、彼に道臣命の名前を授けたという。

神の助力でイワレビコが大和周辺を平定

オトウカシ【猛田県主】の祖先

イワレビコは、一行を騙し討ちにしようと企んだエウカシ(兄宇迦斯)を倒し、彼の弟のオトウカシ(弟宇迦斯)を従えた。
オトウカシの子孫が、宇陀の地を治める猛田県主(たけだのあがたぬし)という中流豪族になる。

宇陀市を拠点に田原本町と桜井市を平定

イワレビコは宇陀に拠点を築くと、そこから師木(田原本町)、忍坂(桜井市)を平定。
彼は忍坂で、ヤソタケル(八十建)と名乗っていた大勢の乱暴者を、策略を用いて従えた。

イワレビコが纏向付近を本拠に

忍坂は纒向遺跡の背後の丘陵にある、奈良盆地の交通の要地であった。
イワレビコは忍坂を平定したあとそこに本拠を置き、兄イツセの敵である北方のナガスネビコとの決戦に向かう。

神武東征伝説はもとは『歌物語』

ここに記したような神武東征の『古事記』の記事は、ヤマト政権に伝わる歌物語をつなぐ形でまとめられたものだという。
歌物語とは、和歌が詠まれた事情を説明する短い話の後に、和歌を置く形をとるものである。 エウカシ討伐の話には「ええしゃごしゃ」「ああしゃごしゃ」という響きの良いはやし言葉を入れた和歌がみられる。

東征伝説は物部氏ら有力豪族が編纂したか

東征の軍勢の指揮官が大伴氏の祖先

神武東征の軍勢の指揮官が大伴氏の祖先で、彼らの下で久米氏が軍の主力となっていたと伝えられている。 そして大和平定の物語の中の主な和歌が「久米歌」の名で歌い継がれていた。

最大の敵ナガスネビコは物部氏が倒したとされる

イワレビコは物部氏が祀る神剣・布都御魂に守られていた。
また、物部氏の先祖が、最大の敵であるナガスネビコを倒したとされている。

継体天皇の時代に伝説が創られた可能性

継体の時代に大伴と物部が躍進している

こういったことから、神武東征伝説は中央の有力豪族である大伴氏と物部氏の主導でまとめられたであろう事がうかがえる。
これを根拠に、神武の東征伝説が大伴金村と物部麁鹿火が大連の地位について継体天皇を補佐した6世紀初めに創られたとする説が出されている。

八咫烏も【鴨氏】という豪族の氏神

また6世紀はじめには、鴨氏が祀る鴨神社が中央で重んじられていた。
当時、大和の葛城鴨(御所市葛城御歳神社)が王家と深い関わりをもっていたのだ。
そのため鴨氏の先祖の八咫烏が東征伝説に加えられた。

神武崩御の後、皇位継承争いが勃発

ナガスネビコ討伐の詳細はわからず

古事記に戦いの詳細が記されていない

イワレビコは忍坂から登美に進むと、ナガスネビコを討った。
『古事記』にはこの戦いの詳細が伝えられておらず、戦いの時にイワレビコが詠んだ和歌だけが記されている。

物部氏の祖先が神武の国内平定に協力を申し出る

そして、この戦いのあとに、ニギハヤヒ(邇芸速日命)という神が、高天原から持参した神宝をイワレビコに捧げた。
そのときニギハヤヒは、イワレビコの国内平定をお手伝いしたいと申し出た。
このニギハヤヒとナガスネビコの妹との間の子が、ウマシマチ(宇麻志麻運命)である。
ウマシマチは物部氏の祖先とされている。

ヤマト政権の誕生、オオモノヌシ信仰への転換

イワレビコが橿原で即位、オオモノヌシの娘と結婚

イワレビコは、奈良盆地を平定したあと、橿原で即位した。 このあと『古事記』は、神武天皇が伊須気余理比売を后に迎える話を記す。
彼女は三輪山の大物主神(大国主神)の娘であった。

神武天皇没後の王位争い

さらに『古事記』は、神武天皇没後の王位争いの話を記している。
神武天皇の長子のタギシミミ(当芸志美々命)が、腹違いの三人の弟を殺して大王になろうとした。
この企てを知ったカミヌナカワミミ(神沼河耳命)が、先手を打って異母兄の寝室に忍び込んでタギシミミを倒したという。

兄に勝利した弟が、二代・綏靖天皇となる

そのためカミヌナカワミミが、二代綏靖天皇になる。
綏靖はオオモノヌシの娘の子で、タギシミミは、南九州の地方豪族・小椅君の妹、阿比良比売の子であった。

綏靖天皇はオオモノヌシの血筋であったという

この王位争いの話は、オオモノヌシの血筋をひく者が大王になるべきだという主張にもとづくものだ。
纒向遺跡に拠った王家は、近くの三輪山の神であるオオモノヌシを守り神としていた。
以降、天武天皇によるアマテラス信仰が始まるまで、天皇家はオオモノヌシ信仰を続けることとなる。
もちろん、二代・綏靖天皇は非実在であった可能性は高い。しかし、わざわざ歴史にこう記してある以上、オオモノヌシが古代の天皇家にとって特別であった事は間違いないだろう。


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