ハツクニシラス

初めて国を治めた天皇「ハツクニシラススメラミコト」

初代天皇が2人存在

ハツクニシラススメラミコト」とは「初めて国を治めた天皇」の意とされ、その名で呼ばれているのは初代・神武天皇10代・崇神天皇の二人である。
なぜ「初めて国を治めた天皇」が二人もいるのか見てみよう。
※崇神に対しては『古事記』も『日本書紀』もハツクニシラスとしているが、神武に対しては『日本書紀』のみがハツクニシラスとしている

「ハツクニシラス」とは何なのか?

ハツクニシラスは「始馭天下之」「御肇国」と書き、スメラミコトとは「皇尊」つまり天皇のことだ。
よって【初めて国を治めた(ハツクニシラス)、天皇(スメラミコト)】となる。
漢字表記は史書によって違い、神武は「始馭天下之天皇」、崇神は「御肇国天皇」などと記される。

古事記と日本書紀の食い違い

崇神のことを『日本書紀』は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」、『古事記』は「所知初國御真木天皇(ハツクニシラシシミマキノスメラミコト)」と記している。
つまり『記紀』が揃って崇神のことを「初めて国を治めた天皇」だと伝えていることになる。
逆に、神武に対しては『日本書紀』のみが神武をハツクニシラス(始馭天下之天皇)としている。

10代 崇神天皇 三輪山に興った勢力

2代〜9代の天皇は事績が少ない

日本書紀』では、神武の後の綏靖(2代)〜開化(9代)の8人の天皇(欠史八代)は事績も殆ど記されていない。
しかし、10代の崇神紀に入ると途端に記事が増え記述が具体的になる。
これらの事績から、崇神を3〜4世紀に大和に実在した王、あるいはヤマト王権初の大王だったと見る識者もいる。

10代崇神から事績が豊かに

崇神は開化(9代)の第二皇子として生まれ、神武と同様に生まれながらに聡明で、天神地祇を崇敬したという。
即位して、三輪山西南麓の「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」に宮居したという。
※磯城瑞籬宮は、日本書紀に記載されている崇神天皇王朝の都、奈良県桜井市金屋に存在していたと推定

崇神の事績 三輪山に興ったヤマト王権

疫病が流行した際は三輪山の神オオモノヌシなどを祀り霊験を受けた。
北陸道・東海道・西道(山陽道)・丹波(山陰道)に将軍(四道将軍)を遣わし、全国平定を進めた。
戸口を調査し課役を課したほか、船舶や灌漑施設を造り、産業の振興にも努めた。
任那国(4〜6世紀頃の朝鮮半島南部にあった伽耶諸国)の朝貢を受けた、等々。
崇神は多くの事績を遺していたとの事だ。

崇神天皇 実在説

崇神の事績に関して内容をみると、書紀の記述には説得力がある。
宮があったとされる磯城の地は、奈良盆地南島、三輪山を仰ぐこの地域は3〜4世紀に造営された古墳が点在し、前方後円墳発祥の地とされる「纏向古墳群」もある。
この地に大きな勢力が存在した可能性は疑いの余地がなく、それが初期のヤマト王権であった、その中心が崇神であった、と考える人は多い。
少なくとも、崇神に関しては『日本書紀』の記述と実際の遺構に共通項が多いのだ。

なぜ初代天皇が二人もいるのか?

なぜ初代天皇が二人もいるのかについては諸説あるが、どれも定説を見ない。

  • 神武と崇神は同一人物であった
  • 崇神が初代であったが、後付けで“初代から9代”が付け加えられた

などの論説が上げられるが、これらの説は「崇神天皇は実在した」事が前提となっている。
しかし、「三輪山麓にいた王」と「記紀に描かれた崇神天皇」が同一人物であった、という客観的な証拠は何も出ていないのが実情だ。
崇神の事績にはある程度の説得力もあるのだが、崇神以降も神々が登場する話もあり、神話の域を出ていない。

崇神による勢力拡大

「2度目の平定」を目指した崇神

この時代、皇后は皇族出身者から立てるのが一般的だったのだが、欠史八代に限っては、各地から県主の娘を后妃としていた。
※県主とは神々を祭祀する役職
これは初代神武から崇神に代替わりする間に「天皇権力が大和からその周辺へと拡大していった」事を意味している。
そして崇神は、さらに四道将軍を派遣し日本列島全体の平定に乗り出している。

「初めて国を治めた」が2度あった?

神武のクニは“大和の中枢地域のみ”であり、崇神が目指したクニは“大和を中心とした日本列島全体”であった。
という見方も出来る。
ややこしいが、そう考えれば「初めて国を治めた」が2度あっても不思議ではないかも知れない。


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