伊勢神宮〜創建と歴史

伊勢神宮〜創建と歴史

目次

伊勢の「神宮」と呼ぶのが正確

伊勢神宮は三重県伊勢市の神社。正確には「神宮」であり「伊勢の神宮」などと表現するのがよいといえる。正確な創建年は不明。主祭神は内宮を天照大御神、外宮を豊受大御神とする。天照は内宮に祀られるまで30年以上にわたる旅を行ったとされる。 天皇の代わりに皇女が出仕した斎王制をとることで、神宮は朝廷との深い繋がりを持ち、高い権威を得ることとなる。江戸時代には人々の憧れの聖地となった。

伊勢神宮の創建年は謎だらけ

正確な創建年はわからない

記紀神話に記されている多くの古社と同様に、伊勢の神宮が創建された正確な年はわかっていない。

『日本書紀』の記述によれば紀元前4年ごろ

創建年を『日本書紀』の垂仁天皇の記述から推定した場合から見てみる。
天照大御神の鎮座地が現在の内宮がある五十鈴川のほとりに定まったのは垂仁天皇25年のこととされる。
その翌年の「丁巳の年の冬10月」に天照大御神がこの地に祀られた、という。
明治時代初代神武天皇が即位したのは紀元前660年とされた。
ここから計算すると、垂仁天皇25年は紀元前4年となる。

丁巳の年とは
西暦年を60で割って57が余る年が丁巳の年。57年、117年、177年、237年、297年、357年

考古学的には【3世紀後半から4世紀はじめ】の297年

当然だが、『日本書紀』の記述をそのまま受け取ることは出来ない。
紀元前4年は弥生時代であり、ヤマト王権が誕生するよりも前になる。
これに対して、歴史・考古学的に見ると、垂仁天皇の在位は3世紀後半から4世紀はじめと考えられることから、ここに「丁巳の年」に相当する年は、297年となる。

ヤマトの東国経営がはじまる【4世紀後半】とする説も

実際の創建は4世紀後半とする説もある。
この時期に、ヤマト王権の勢力範囲が拡大し、東国経営が本格的にはじまる。
伊勢の地は、東に海路をとる際の前線基地の役割を持ちはじめた。
そのためヤマト王権における伊勢の地の重要性が高まることで(地元神であるか皇祖神であるかはひとまず置くとして)、本格的な祭祀が開始された。のがこの時期であったとも考えられている。

外宮〜豊受大神宮の創建

外宮の創建を本格的な神宮祭祀のはじまりとする説

さらに外宮の創建が本格的な伊勢の神宮祭祀のはじまりとする説もある。
5世紀後半頃に日本を治めたとされる21代雄略天皇は、国々を平定しヤマト王権の領域を広めた天皇である。

外宮は【雄略天皇の時代】の創建とされる

『日本書紀』には、外宮の創建についての記述はないが、9世紀に編纂された伊勢の神宮に伝わる史料で最も古い『止由氣宮儀式帳』には、外宮が雄略天皇の時代に創建されたことが記されている。
この外宮の鎮座を、実質的な伊勢の神宮の創建とする説である。

690年、持統天皇の代に第1回式年遷宮

持統天皇4年(690)に第1回の式年遷宮が行われたことからも、遅くても7世紀には伊勢の神宮は確固たる地位にあったようだ。
伊勢の神宮の創建はそれ以前と考えられるが、現在も議論が続いている。

神宮の創建〜日本書紀にもとづく

最初は宮中に祀られていた天照

次に伊勢の神宮の創建の経緯について、『日本書紀』の記述を見てみる。
10代崇神天皇の時代、天照大御神と倭大国魂神は、歴代天皇にならって宮中に祀られていた。しかし、このことを畏れ多いことだと感じていた矢先、国内に疫病が蔓延し、死者が続出する。

10代崇神によって、天照が宮中の外(三輪山付近)に

そこで崇神天皇は、2神を宮殿外へ遷し祀る決心を固めた。
そこでそれぞれの神の御魂代(神が宿った物)を皇女に託して、宮中の外に祀らせることになった。
天照大御神の御魂代である八咫鏡は豊鍬入姫命に託され、笠縫邑に祀られた。これは現在、三輪山の檜原神社(奈良県天理市)がある地とされる。
その結果、疫病は止んで平穏になり、人々は五穀豊穣を享受し、豊かに暮らしたという。

11代垂仁の代に天照が伊勢へ、伊勢神宮も創建

続く11代垂仁天皇の時代になると、八咫鏡の祭祀は豊鍬入姫命から垂仁天皇の皇女である倭姫命に引き継がれた。
倭姫命は天照大御神の「御杖代(神に仕える役)」となり、天照大御神を鎮め祀るためのより良い地を求め、笠縫邑を旅立ったとある。
そして、伊勢の地に辿り着き、垂仁天皇26年に伊勢の神宮が創建された。
『日本書紀』における伊勢の神宮創建の記述の経緯は非常に簡略なものだが、このほかに「倭姫命世記』(8世紀後半成立)、『皇大神宮儀式帳』(9世紀初頭成立)に記されている。

なぜ天照は30年も諸国を巡行したのか

元伊勢〜天照が旅の途中に立ち寄った場所が50以上

『倭姫命世記』によると、倭姫命は笠縫邑を出発した後、約30年間にわたって、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)、尾張(愛知県)を転々としながら、各地で天照大御神を祀り、最終的に伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座することになった。
こうした天照大御神が一時的に祀られた神社は「元伊勢」と呼ばれている。
この元伊勢の伝承地は、『倭姫命世記』と『皇大神宮儀式帳』に記されたもの以外にもあり、その数は50以上にのぼる。

各地を回ることで豪族との協力関係を築いたのか

なぜ倭姫命は北に大きく迂回した後に伊勢の地に天照大御神を祀ったのか。
『倭姫命世記』の記述では、ほとんどの「元伊勢」で倭姫命は、その地を治める国造や県造から、天照大御神を祀るための神田や神戸(神田を耕す人)の寄贈を受けている。
倭姫命の巡行とは、天照大御神にふさわしい鎮座地を探索する旅であると同時に、各地の豪族との協力関係を築く遠征の意義を持つものだということがわかる。

外宮鎮座と内宮鎮座は500年の差があるとのこと

一方、外宮が鎮座したのは、内宮が鎮座した約500年後(正確には484年後)のこととされる。
延暦23年(804)に編纂された『止由気宮儀式帳』によると、21代雄略天皇の時代に、内宮の祭神・天照大御神が天皇の夢に現れ、「1人では食事もままならないため、丹波国(京都府北部)の豊受大神を呼び寄せ、安らかに食事ができるようにしてほしい」と神託したことにより創建されたとされる。

豊受大神〜食物を司る神

神に供える食事のことを新饌、あるいは御饌というが、食物を司る神を御饌都神と呼ぶ。
豊受大神は丹波国で信仰されていた御饌都神と考えられる。豊受大神は『日本書紀』には登場せず、『古事記』では、伊弉冉神が火の神を産んだときの火傷に苦しんでいる際に尿から生まれた稚産霊神の娘とされる。

天皇の皇女が出仕した【斎王制】

天皇の代わりに皇族女性が都から伊勢へ派遣

明治時代以前、伊勢の神宮に歴代の天皇が参拝することはなかったが、「斎王」と呼ばれる皇族女性が都から伊勢へ派遣された。
斎王は伊勢の神宮の近郊にあった斎宮(三重県明和町に遺跡がある)に住み、祈りの日々を過ごすことになる。

斎王は天皇の代替りごとに未婚女性から選定された

斎王は天皇の代替りごとに、未婚の内親王(天皇の娘)の中からト定(占い)で選ばれた。
内親王がいない場合は、女王(皇族の女性)の中から下定された。
つまり、斎王になる必須条件は「未婚」「皇族」「女性」の3点を満たすことだった。

平安前期には国家制度として斎王が存在

斎王に関しては、平安前期にできた『延喜式』にも規定が載っており、斎王はれっきとした国家制度に位置づけられていた。
斎宮には、斎王の住む宮殿とともに、役所としての斎宮寮があり、中央の諸官庁並みに多くの官人が働いていたのだ。

斎王は40代天武〜96代後醍醐の代まで続いた

制度としての最初の斎王は、40代天武天皇の皇女である大来内親王(673年に就任)で、建武新政(1333〜1336)を断行した96代後醍醐天皇の代まで続いた。
斎王の制度は武士の力が強くなると、弱体化していった。
天皇親政の復興を宣言した後醍醐天皇が強化を図ろうとしたものの、後醍醐政権の崩壊とともに、斎王も史上から消えた。

斎王の原型は天照とともに旅した【倭姫命】

斎王の原型は、天照大御神を祀る地を探して各地を巡った倭姫命にあり、穢れなき清浄な女性像と相まって、天照大御神の「御杖代」として仕え奉る性格を付与された存在だったともいわれている。

神宮の地位は斎王によって確立されたとも

斎宮に着任後も斎王は、つねに神に仕え奉る心持ちで、静かに生活した。
伊勢の神宮に出仕するのは9月の神嘗祭と、6月と12月の月次祭の年3回である。
天皇によって選ばれた斎王の出仕のもとで祭事を執行することで、伊勢の神宮はほかの神社とは別格であることを証明された。
伊勢の神宮の揺るがぬ地位は、斎王によって確立されたともいわれる。

神宮の中心的な神職【禰宜(ねぎ)】

伊勢の神宮の祭務において中心的な役割を担う神職である禰宜は、当初、荒木田、根木、度会の3氏が担ったが、根木氏は早くに断絶。やがて内宮では荒木田氏が、外宮では度会氏が、禰宜の中核になっていった。
両氏は、それぞれの宮を盛り立て、どちらが優位であるかを競った。

内宮は天照を祀っているため朝廷から信仰された

内宮は至高の神である天照大御神を祀っていることから、朝廷から尊貴の宮として信仰されており、その地位は絶対的なものがあった。
そのため、外宮の神職たちは、外宮の権威の向上を目指した。その中心となったのが度会氏だった。

度会氏〜祭祀で大役を果たした氏族

度会氏は伊勢土着の氏族で、神宮鎮座以来、その祭祀で大きな役割を果たしてきた。古例を家伝する度会氏は、神国思想が高まった鎌倉時代になると、伊勢の神宮の鎮座伝承などをまとめ「度会神道」を成立させた。

度会神道〜神宮で生まれた神道の説

度会神道(伊勢神道とも)では、外宮の豊受大神は天照大御神より前に現れた国常立尊や天御中主尊といった神と同体だとし、これら異名同体の神々を「大元神」へと集約する。
神話の系譜も引用しながら、この大元神の尊貴性を主張した。

鎌倉時代に庶民の参宮も増え経済発展

鎌倉時代には庶民による参宮も増えてきて、内宮のある宇治、外宮のある山田は、門前町として繁栄を見せはじめた。
外宮のある山田は交通の利便性が良いことから、経済的な繁栄を見せるようになった。

江戸時代に伊勢が人々の聖地に

お陰参り〜江戸から数百万人が神宮を参拝

伊勢の神宮が庶民にも広く信仰されるようになったのは、江戸時代のことである。
江戸時代、およそ60年周期で、数百万人が伊勢の神宮に参拝する「お陰参り」という現象が出現した。 この年を「おかげ年」という。
江戸から片道15日、大坂(大阪)からでも5日の旅路である。

「一生に一度はお伊勢参りを」が庶民の憧れに

伊勢に着いて、参拝者の世話を担うのは「御師」と呼ばれる下級神職たちである。
伊勢の神宮の御師らは普段から各地へ行き、人々にお伊勢参りのご利益を説き、神宮大麻や伊勢暦などを配って歩いた。
御師は宿屋も営んでいたので、はるばるやって来た人々を泊めては大いにもてなし、伊勢観光のガイド役も買って出た。
こうして、「一生に一度はお伊勢参りを」というのが庶民の憧れとなったのである。

幕末明治以降も神宮の威光は衰えず

幕末の動乱期、神宮権威が運動の御旗となる

幕末になると、伊勢の神宮の権威は社会運動に発展した。
政情の不安から「天から伊勢神宮のお神札が降ってきた」という噂をきっかけに、日本各地で人々が「ええじゃないか、ええじゃないか」と熱狂的に歌い踊るようになったのである。
この「ええじゃないか」は既存の政治体制に対して、維新を促す役割もあったともいわれる。

明治政府により神宮の費用が国庫支出に

明治時代には神社の国家管理が進められ、明治6年(1873)から伊勢の神宮の費用が国庫から支出されるようになった。

明治天皇から今上天皇まで神宮を公式参拝

明治時代になると、明治天皇により天皇として初となる伊勢の神宮の公式参拝が行われた。
以降、現在の今上天皇まで歴代の天皇が伊勢の神宮に参拝している。
昭和20年(1945)11月には、昭和天皇が伊勢の神宮に参拝し、終戦を奉告している。
戦後になり、伊勢の神宮は国家管理を離れ、宗教法人となり現代に至っている。

伊勢神宮の祭事〜年間1500程

平安時代から変わらない儀式

屋台が並ぶ祭りとは違う、古式に則った儀式

伊勢の神宮では年間約1500もの祭事が行われている。屋台が出るような身近で見られる祭りとは異なり、伊勢の神宮の祭事は、平安時代からまったく変わらないしきたりに則った儀式だ。

日別朝夕大御饌祭〜神に食事を奉る

古代日本の風情を再現した儀式

例えば1500年間途切れることなく行われてきた日別朝夕大御饌祭は、神に食事を奉る祭事で、火をおこす際にも木と木をすり合わせる道具を使うなど、その情景は古代日本の風情を再現している。

年間で730回に及ぶ

日別朝夕大御饌祭は毎日朝夕に行われ、その数は年間で730回に及ぶ。

古式に則った御饌の調理、決められた時間にお供え

古式に則った方法で調理された御饌を神にお供えする時間は、朝御饌は午前8時(冬は9時)、夕御饌は午後4時(冬は3時)である。定められた時間に、忌火屋殿で御塩によるお祓いを受けた後、2人がかりで唐櫃を担ぎ、神がお食事される御饌殿へと向かう。御饌殿の御扉が開く際には、ギィーッと音が鳴る。これは建てつけが悪いわけではなく、御饌を持ってきたことを神に伝えるためにあえて音が鳴るようにつくられているのである。殿内ではまず天照大御神、次に豊受大神、そして相殿神・別宮の神々に御饌をお供えすのりとる。その後、祝詞奏上などの諸祭儀を行い、1回の祭事は約40分、調理の時間も合わせると朝夕合わせて約4時間半もかかることになる。

神嘗祭〜初穂を天照に捧げる

神宮の年間祭事で最重要な祭事

神宮の年間祭事で最も大切なお祭りが神嘗祭(かんなめさい)である。神嘗正月、大祭りともいわれ、その年の初穂を天照大御神に捧げる。

天照が天孫に授けたとされる稲穂

日本人と米との関係は、神話の世界にまでさかのぼる。天照大御神の孫の瓊瓊杵尊が地上へとおりる際に、天照大御神は3つのものを授けた。統治権、神宮のご神体である八咫鏡、そして稲穂である。稲穂は、日本という国家と鏡という日本人の精神とならぶものとして、単に主食としてだけではない特別な食物なのである。

神嘗祭も神話に由来、10日間続けられる

この神嘗祭は神話に由来し、天照大御神にその年の実りをご奉告し、感謝を捧げる祭事である。10日間続けられ、内宮、外宮、14の別宮、109の摂社末社所管社で行われる神宮最大の年間祭事である。

その他の年間祭事

三節祭、月次祭、祈年祭、新嘗祭

その他、神嘗祭と合わせて三節祭と呼ばれる6月と12月の月次祭、その年の豊作を願う祈年祭、天皇がその年の米を初めて召し上がる新嘗祭など、年間を通じてさまざまな祭事が行われている。

ご神体〜八咫鏡と心御柱

八咫鏡〜三種の神器の1つ

ご神体〜神が宿る場所や器物のこと

ご神体とは神が宿るとされる場所や器物のことで、目に見えない神の代わりとして、神そのもののように丁重に扱われる。

天照が天孫ニニギに授けた鏡とされる

伊勢の神宮の内宮に祀られているご神体は、三種の神器の1つとしても名高い「八咫鏡」である。これは、地上統治のため下界に降臨した天孫・瓊瓊杵尊(ニニギ)が天照大御神から託されたものである。

八咫鏡は“宮中が写し”で“神宮が本物”とされる

八咫鏡は、皇居と伊勢の神宮にそれぞれ祀られているが、宮中のものは後世につくられた「写し」であり、伊勢の神宮のものがオリジナルの神鏡とされる。

天皇すら見てはいけない謎の鏡

「八咫」という名前や、神宮の古記録にある「八頭花崎八葉の形」という表現から大型の内行花文鏡の特徴を備えているとも考えられているが、天皇ですら見ることを許されない最高の秘宝であり、詳しい姿はわかっていない。

心御柱〜最初のご神体か?

もう1つのご神体ともいえる1本の柱

伊勢の神宮には八咫鏡と並ぶほど重要視され、同じくらい深い謎に包まれている「もう1つのご神体」といえるものがある。「心御柱(しんのみはしら)」と呼ばれる1本の柱で、八咫鏡を祀る御正殿の床下中央の地中に立てられているといわれる。

心御柱〜見ても触れても語ってもいけない存在

心御柱は「忌柱」「天御柱」ともいわれ、その存在について触れることも、見ることも語ることも許されない秘中の秘として人々の目から隠されてきた。

心御柱を移動するのは限られた神職の役割

現在でも式年遷宮にあたり新しい心御柱を伐り出す神事は山中で深夜に行われる秘祭とされ、新正殿造営地に心御柱を建てる奉建の儀も、深夜、松明を灯しながら限られた神職によってのみ執り行われる、遷宮諸祭中、ひときわ重要な秘事とされている。

中世の文献に心御柱のようすが描かれている

中世に書かれた文献によると、心御柱は地上に1メートルほど突き出した、柱というより杭のような状態のものだったようだ。安土桃山時代の遷宮以降はまるまる地面に埋められてしまったのだという。理由は、地上に出ていると人々に見られ、拝まれてしまうからとされる。

神籬〜神を依り憑ける臨時の祭壇

神道においては、神籬と呼ばれるものがある。これは神を依り憑ける臨時の祭壇のような役割のもので、現在でも地鎮祭では、榊を立てて臨時の祭壇とされる。

心御柱は八咫鏡の前の「最初のご神体」か?

神籬は、鏡などの人工物をご神体とするよりも古い祀りの形式で、心御柱は、八咫鏡に先だって伊勢の神宮で祀られていた「最初のご神体」の可能性も指摘されており、伊勢の神宮の信仰の奥深さを表しているものともいえる。


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