徐福と日本

徐福と日本

徐福が日本にもたらした物

中国では、秦の始皇帝の時代に、徐福五穀の種子100種の工人(技術者)と若い男女3000人を連れて、東方に船出し、東海の「平原広沢」の地の王となったという記録が残っている。
平原広沢とは、広い平野と湿地という意味で、豊かな自然の地、つまり日本を指すと思われる。
日本各地には古くから徐福伝説があり、沢山の技術を伝えた神として祀られている。
その伝説の地と、初期の水田遺跡が一致する例が多い。
徐福に代表される渡来系の人々が、多くの高度な技術を日本にもたらし、縄文から弥生への急激な変化を遂げる事になった。

当時の日本は文字がない

日本で弥生時代が始まったのは、紀元前3世紀ごろといわれ、その頃の日本にはまだ文字がなかった。
日本で最初の歴史書である「古事記」と「日本書紀」が編纂されたのは、8世紀の初頭であり、これらの書物から、弥生時代の日本の姿を想像するのは、得策ではない。
日本では出土物から、弥生時代の始まりを推定するしか、手掛かりはないのだ。

司馬遷の「史記」

ところが、中国では、もっと古くから文字による記録が残されている。
日本の弥生初期は、中国では秦の始皇帝の時代にあたる。
その時代を、司馬遷(しばせん)は「史記」という歴史書に記録している。
この「史記」は、司馬遷が、綿密な取材を重ねて編纂した書物であり、過去の事実が忠実に記述されているとして、現代でも高い評価を得ている。

「史記」の時代の中国

この「史記」の中に、日本の弥生初期と関わりがあると思われる記述が残されている。
「秦始皇本紀」紀元前219年の記事である。
この時代の中国は、始皇帝によって、強力な統一国家を確立されている。
始皇帝は朝鮮半島をも支配下に収めており、さらに、万里の長城という巨大な防塁を築いている。
始皇帝は、苛烈なまでに法律を徹底し、厳罰によって、人民に法令を守らせようとした。
人民は始皇帝を恐れおののいたが、始皇帝は、自分が布いた体制がしっかり守られているかを視察する為に、全国を巡行している。

始皇帝と徐福の出会い

始皇帝は、巡行の都度、山東半島を訪れている。
この山東半島は、太古の昔から神霊の宿る処とされていた場所だ。
始皇帝は、紀元前219年、この山東半島で、道教といわれる以前の原始的な呪術師の、方士の徐福と出会った。

日本に不老長寿の薬があった?

始皇帝は、自分の死を恐れていた

徐福はこの時、始皇帝に、ある要求をしている。
徐福は「東海にある三神山に住む仙人に会いに行き、不老長寿の薬を手に入れて来る為に、童男と童女を数千人と、それを乗せる船を用意して欲しい」といったという。
この頃の始皇帝は、自分の権力の永続性を願い、不老長寿を熱望していた。
そして、徐福の願いは聞き届けられ、皇帝支援の下に、出発の準備が進められた。

始皇帝のクジラ退治

次に始皇帝が、山東半島を訪れたとき、徐福は莫大な資金と兵力を与えられながら、まだ出発していなかった。
工程が怒って糾問すると、徐福はこう答えた。
「東方に向かって船出はしたが、途中、大きな魚(クジラの事)に遭遇してしまい、妨げられて行けなかった」という。
そこで始皇帝は、自らクジラを退治したといわれる。

船出を最後に徐福は、中国に帰らず

そして、始皇帝は大いに喜び、3000人もの若い男女に加え、五穀の種子と多くの技術者を送り、徐福と一緒に東海へ派遣した。
ところが徐福は、船出に出たっきり、帰っては来なかった
徐福は旅先で、広々とした平原を獲得して、そこの王となる事を選んだのだ。
果たして、徐福が王となったという、東海の「平原広沢」とは、本当に日本だったのか?

徐福は日本にたどり着けたのか?

徐福は中国の山東半島から東海(黄海)へ船出したとされる。
そうなると、徐福がたどり着いた地の候補として、日本列島以外では、朝鮮半島や済州島、もしくは台湾などが考えられる。
しかし、朝鮮半島は当時、既に始皇帝の支配が及んでいた地域であり、徐福がそこの王になる事を選んだとは考えづらい。
済州島にも徐福が渡来した、という伝説がいくつか残っているが、あくまで、通過したという事であろう。
台湾は海流的にたどり着いたとは思えず、さらに、種子島などの小さな離島では「平原広沢」という条件に当てはまらない。
やはり、徐福の渡来地は日本と考えるのが妥当である。

徐福は日本のどこにたどり着いた?

日本には、徐福が渡来したと伝えられる地点が10か所以上もある。
しかし、地理的に考えると、九州を通り過ぎて、本州や四国に最初にたどり着いたとは考えづらい。
また、九州西部には「菜畑遺跡」などの日本最古の水稲耕作遺跡が発見されており、日本で最初に稲作が普及したのも、九州と思われる。
地理的、考古学的に考えても、やはり、徐福が最初に渡来した地は九州であろう。
平原広沢という言葉を考えると、ちょうど吉野ケ里遺跡の有る佐賀県あたりではないだろうか。

日本の徐福伝説

日本に着いた徐福の伝説

佐賀県の徐福会が調べた徐福来日の足取りは次の通りである。
徐福の船団は、有明海に入ると、どこに上陸するかで迷っていた。
そこで、海に盃を浮かべて、盃が流れ着いたところに決めたという。
そして、徐福が上陸を果たしたのが、佐賀郡諸富町(もろどみ)の浮盃地区(ぶばい)である。

徐福の上陸跡地

上陸地跡には、徐福を祀った金立神社が建てられていたが、現在は石碑だけが残り、唐風といわれる建物はすぐ近くに移転されて公民館に使われている。
徐福が上陸して手を洗ったとされる寺井津の井戸や徐福を祀った新北神社もある。
徐福一行は、ここからアシの生い茂る沼地をさらに北へ進み、そしてたどり着いたのが、脊振山地(せふり)のふもと、金立地区だったという。

徐福を祀る金立神社

金立地区は吉野ケ里遺跡とは、東へわずか8キロしか離れていない。
ここに徐福を祀った金立神社がある。
保食神(うけもちのかみ:食物の神)、罔象女神(みずはめのかみ:水の神)と共に農業の神とされている。
特に、日照りのときは雨乞いの神として、付近の農民の篤い信仰を受けてきた。

金立神社は山のふもと

金立神社は、ふもとから、下宮、中宮、本宮、奥の院とけわしい山道を登っていくが、本宮は、標高500m程のところにある。
本宮の御神体は10m以上もある巨石で、そこに、倍の高さの檜の老木が根を絡ませている。
宮司さんのよると、2000年以上も経つ古木で、徐福が祀られたときに植えられたものと伝えれている。

今でも熱い信仰を受ける徐福

徐福は、金立地区の住民から今でも篤い信仰を受けている。
徐福が中国から稲作をもたらし、医薬を伝えたと信じられているからである。
金立の人々は、徐福を、自分たちの祖先と敬っており、今でも、50年に一度の大祭が盛大に行われている。
この本宮から、御輿をたて、はるばる諸富町の上陸地まで行列を連ね、一度、徐福を海に送り出して再び迎え、ここまで帰ってくる祭りである。
現在、最後に祭りが行われたのは、昭和55年の4月で、この時は、2200年大祭にあたっていた。

伝説と史記が一致している

徐福が海を渡ったという「史記」の記述の年代と、この金立神社の伝承は、見事に一致している。
徐福はここで亡くなったといわれるが、徐福一行の一部は不老長寿の薬を求めて、さらに有明海を出て、鹿児島県いちき串木野市の冠岳を経て、太平洋側を北上したとされている。

金立神社縁起図

金立神社縁起図

金立神社には、江戸時代中頃に寄進された「金立神社縁起図」が伝わっている。
徐福が上陸して、金立神社本宮へ行く道筋が示されているが、上陸地での書き込みには「女童髟兵二百人男子五百人」と記されている。
徐福が浮盃を初めて訪れた時には女性が200人、男性が500人だったという事で、徐福が山東半島を出た時より随分少ない。
徐福は、最初から3000人以上の船団を各隊に分け、日本各地に先遣隊を送っていたのかもしれない。


各地で祀られる徐福

熊野の徐福神社

三重県熊野市の波田須にも徐福神社がある。
黒潮が紀伊半島にぶつかる熊野は古くから熊野信仰の霊地であった。
地元では、徐福一行がこの地に漂着し、病を癒して熊野の新宮市に向かったとも、徐福がこの地で没し、徐福の意思を継いだ人々が新宮市に向かったとも伝えられる。
この徐福神社では、徐福は焼き物の技術をもたらした神として祀られている。
神社の周辺からは、時代は下るがいくつかの窯跡が発掘されており、徐福が持ってきたとされる須恵器の鉢が社宝として伝えられている。
さらに波田須には、徐福が指導して築いたとされる万里の長城跡と称されるものが残っている。
人の頭ほどの大きさで、運ぶことが可能な限りの丸石を1.5m程の高さに、谷あいでは3.5m程の高さに積み上げた30kmに渡る石垣である。
その終点が新宮市の熊野になる。

阿須賀神社の徐福の宮

和歌山県新宮市にある阿須賀神社(あすかじんじゃ)に徐福の宮が祀られている。
蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれる山が御神体とされ、この神社は素戔嗚尊(スサノオ)を主神とする、熊野で最も古い神社といえる。
熊野地方では、徐福は捕鯨を伝えた漁業の神とされ、また漢方薬をもたらした医術の神ともされる。

富士山麓

富士山麓の山梨県富士吉田市の太神社にも徐福の墓がある。
この界隈は昔から機織り業が盛んなところであったが、徐福は織物を日本に伝えた神として祀られ、年一回の織物祭りには徐福を祀った御輿が町内を練り歩く。

津軽半島

本州の最北端、津軽半島の青森県北津軽郡小泊村にも徐福伝説が残っている。
権現崎の尾崎神社に、徐福は航海漁業の神として祀られている。
徐福の子孫とも、家臣とも伝えられる人々が奉納した徐福の神像が、尾崎神社の分社である神明宮に秘蔵されていた。


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