石田三成

西軍を率いた 石田三成

石田三成

五奉行の随一 石田三成

石田三成(1560〜1600年)は安土桃山時代、近江出身の戦国武将である。三成は若くして豊臣秀吉に見出されて以降、常に「太閤殿の股肱の臣」といわれた。
三成の本領は武功よりも、事務的な役割を果たす文治派であった。
この頃、戦国の末期の戦いは銃砲火器を大量に用いるものにかわり、購入資金の確保や、交渉を受け持つ文治派が重要な役割と考えられていた。
三成は、そういった交渉力や、秀吉の考えを相手に言い伝える考察力なども評価され、「五奉行の随一」といわれた。

文治派と武断派の対立により政権崩壊

豊臣政権は一見、安定しているように見えていた。
しかし、1598年に秀吉が亡くなってから、豊臣家臣団たちの結束に入る綻びが、表立って見えるようになるのである。
朝鮮出兵(日明戦争)の過程で、後の熊本城主である加藤清正とキリシタン大名である小西行長対立が目立つようになり、行長や三成らなどの文治派と、清正や福島正則などの武断派(※軍務を担った武将たちの事)の間に確執が生まれてしまう。
五大老の一人であった前田利家の死後、両派の関係を仲裁するものがいなくなったため、武断派の武将たちは、三成に対する襲撃事件を起こしてしまう。
三成は命辛辛、襲撃を回避する事に成功するが、事態の収拾を図るため、隠居を余儀なくされてしまったのだった。

家康を討つため、挙兵する

隠居後、三成はしばらく佐和山城において領国経営にあたっていたが、家康が秀吉によって禁じられていた大名同士の婚姻などを許可なく行う様子を見て、家康の挙動を危惧するようになるのだった。
そして、家康打倒に向けて、毛利輝元宇喜多秀家などの反家康大名たちとの連携を図るのである。
そして1600年、家康が東北最大の勢力を誇る上杉景勝の討伐に出兵するのを見届けたうえで、三成率いる西軍も挙兵した。
この時、豊臣秀頼の居る大坂城は毛利輝元が抑えており、家康寄りの武士たちは大坂を追われてた。
家康と共に、上杉討伐に動いた武将たちの親族は西軍に人質として抑えられており、三成は万全の体制を築いていた。
しかし、東軍の武将は武断派が多数ついており、人質を取るなどの卑怯な戦略は、返って東軍も指揮を高める結果になってしまう。
そして、三成は関ヶ原にて東軍を迎え撃つのである。
緒戦は西軍が有利に思える戦いであったが、小早川秀秋吉川広家毛利秀元らの裏切りにあい、敗北してしまうのであった。

質素な暮らしを望んだ無欲な武士

戦いの後、三成は敗走し、近江国に潜んでいたが捕らえられてしまう。
そして、小西行長や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと共に、斬首・処刑されてしまったのである。
戦後、東軍の平が三成の居城であった佐和山城に入った際、城の中はいたって質素であり、高価なものや財産などは殆どなかったといわれる。
俸禄は残さず使い、主君に尽くすべし」という三成がよく口にしていた言葉通りの暮らしを営んでいた事が伺えるだった。



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