1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長。
信長は次の攻略目標を隣国の美濃に定めた。
信長は苦しみながらも、7年の歳月を費やして美濃を攻略し、この地を「岐阜」と改めた。
美濃は土岐家が代々守護を務めていたが、斎藤道三が当主の土岐頼芸(ときよりなり)を追い出し、美濃国主の座についていた。
織田家とは何度も戦火を交えていたが、道三が娘の帰蝶(きちょう:濃姫)を織田信長に嫁がせる事で同盟が成立した。
道三は信長を高く評価し、信長に「美濃を譲渡する」という遺言書を送ったとも云われている。
だが嫡男の義龍(よしたつ)とは仲が悪く、道三は義龍を無能呼ばわりしていた。
そして、遂には義龍を廃嫡し、偏愛する義龍の弟に家督を継がせたいと願うようになった。
これを知った義龍は弘治元年(1555年)、道三が偏愛する子たちを殺害する。
そして、父を討伐する為の兵を起こした。
翌年4月、両者は長良河畔で激突するが、兵の数は義龍が圧倒的に勝っていた。
娘婿の信長が援軍を送ったが間に合わず、道三は討ち取られた。
道三の死後、織田家と斎藤家との仲は険悪になった。
信長は何度か美濃に侵攻したが義龍は手強く、ことごとく追い払われてしまう。
しかし、永禄4年(1561年)、義龍は35歳の若さで急死する。
この龍興(たつおき)が斎藤家の家督を継いだが、祖父や父と比べると凡庸だったという。
その為、家臣の信望を得られず、美濃を狙う信長にとっては好機となった。
永禄6年(1563年)、信長は美濃攻略の為に本拠を清州から小牧山に移した。
更に北近江の浅井長政と同盟を結び、龍興を牽制した。
この時、信長は妹のお市を長政の許に輿入れさせている。
信長の美濃攻略は着々と進み、永禄8年(1565年)には美濃の要衝である加治田城(かじた)を調略で手に入れた。
そして濃尾国境(のうび)にある鵜沼城(うぬま)と猿啄城(さるばみ)に攻め入り、これを陥落された。
さらに斎藤家の重臣だった西美濃三人衆(稲葉良通(よしみち)、氏家卜全(ぼくぜん)、安藤守就(もりなり))を調略で寝返らせると、斎藤家の衰退は決定的なものとなった。
永禄10年(1567年)、信長は斎藤家の本拠である稲葉山城を攻め、これを陥落させた。
龍興は伊勢長島へ逃れ、信長は7年掛かりで美濃を平定した。
その後、信長は本拠を稲葉山に移し、名前を「岐阜」と改める。
また同時期に「天下布武」(てんかふぶ:天下に武を布くす)という印判を用い始めた。
このとき信長は34歳で、天下取りに向けて大きく飛躍し始めたのである。
一方で、美濃と国境を接する武田信玄とは友好関係を築いた。
永禄8年(1565年)、信長は信玄の子・勝頼に自分の養女(遠山夫人)を娶らせた。
夫人は勝頼の子を産んだ後に亡くなるが、その後は信長の嫡男・信忠と信玄の娘・松姫との婚姻を成立(のちに解消)させるなど、同盟関係の維持を図った。