山崎の戦いは、本能寺の変の後、織田信長を討った明智光秀と羽柴秀吉との間で起こった戦い。
信長討死の報せを聞いた秀吉が即座に備中・高松城から引き返す事に成功(中国大返し)、6月13日に摂津国と山城国の境に位置する山崎(大阪府三島郡島本町山崎、京都府乙訓郡大山崎町)において、両者は激突した。
合戦は一日のうちに集結し、光秀は敗走中に土民に襲撃されて絶命した。
勝利した秀吉はその後、信長の後継者としての地位を確立、天下人としての道を進む事になる。
なお、山崎の戦いはかつては「天王山の戦い」などと呼ばれており、山崎合戦とも呼ばれる。
主君・織田信長が京・本能寺で撃たれたという一報が羽柴秀吉のもとにもたらされたのは、中国攻めの一環として備中高松城を攻めている最中であった。
秀吉は、備中高松城主・清水宗治に腹を切らせて毛利氏と和睦すると、姫路城までの約70kmの距離を一日半で駆け抜けた。
いわゆる「中国大返し」である。
姫路城で態勢を整えた秀吉は、ひたすら京を目指して進軍し、12日夜には摂津富田(大阪府高槻市)に到着。
翌日、秀吉は山崎で信長を攻め滅ぼした明智光秀と円明寺川を挟んで対峙する事になった。
光秀は秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝竜寺城の修築に取り掛かる。
しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、圧倒的な兵力差のまま決戦に臨む事となった。
天王山と淀川に挟まれた山崎の地の北側に展開する明智軍は、総勢約1万6000人。
光秀本隊は勝竜寺城の南に陣取った。
対する羽柴軍は、本隊が約2万5000人に、織田信孝(信長の三男)や丹羽長秀(織田の家臣)らの軍勢などが加わり、総勢約4万人の大軍となった。
信長の死の直後という事もあり、信長が持っていた“求心力”が、そのまま秀吉に乗り移ったともいえる。
秀吉の参謀・黒田官兵衛は戦場を見下ろせる天王山をいち早く占拠し、羽柴軍は天王山の麓に布陣した。
13日昼過ぎ、雨が降り視界が悪い中、中川清秀軍に対して、明智軍が襲い掛かる形で戦闘が始まり、たちまち混戦となった。
池田恒興・加藤光泰軍5000人が明智軍左翼の津田信春軍に側面攻撃を仕掛けて撃破。
明智軍中央は高山右近・堀秀政軍が猛攻を加えて、明智軍は総崩れとなり、光秀は勝竜寺城に撤退する。
明智軍では士気の低下が著しく、兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。
一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、追撃は散発的なものに留まっている。
その日のうちに光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城・坂本城にわずかな手勢を連れて戻ろうとする。
しかし、途中の小栗栖(京都市)の竹藪で落ち武者狩りの槍に掛かって殺害されたといわれる。
また、何とか逃れたものの力尽きて家臣の介錯により自刃したという説もある。
翌日にはすぐ秀吉は光秀捜索に動き、光秀の家臣明智秀満の軍を撃破、敗走した秀満は坂本城で光秀の妻子を殺害、自身も自刃する。
後に光秀の子・明智光慶も自刃しており、明智氏は僧などを除いて滅亡する。
その後、秀吉は京に入った後に近江を平定。
秀吉は信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。
光秀の重臣・斎藤利三は、山崎の戦いで敗れた後、捕縛され斬首された。
利三の娘・福は、苦労を重ねながら成人し、後に江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母・春日局となる。
春日局は「将軍様御局」として大御台所・江の下で大奥の公務を取り仕切る程に人物であった。
朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。