長篠・設楽原の戦い

長篠・設楽原の戦い

武田信玄の死後、後を継いだ武田勝頼は三河・遠江へ盛んに出兵する。
これに対し、織田信長は新たな戦術「鉄砲」を用いて打倒武田を図る。
数千丁の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を駆使して、信長は武田軍の撃破に成功する。

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)

信玄の後を継いだ武田勝頼

武田信玄の死後、後を継いだのは四男の武田勝頼だった。
母は諏訪頼重(すわよりしげ)の娘で、当初、勝頼は諏訪家を継ぐ筈だった。
しかし、信玄の嫡男である義信が廃嫡され、謎の死を遂げてしまう。
これにより勝頼が武田の後継者となったが、家臣団は勝頼を「諏訪の人」として見ていた。

武田勝頼 高野山持明院蔵

武田勝頼 高野山持明院蔵

脆弱だった勝頼率いる武田家

しかし、勝頼と武田家臣団の関係が円滑になる前に信玄が亡くなってしまう。
その結果、勝頼は武田家中に政治的基盤を持たないまま当主となった。
勝頼率いる武田家は、初めから家臣団の結束が弱かったといえる。

焦りから無理に戦を進める勝頼

父・信玄を越えなければならないという焦りを感じた勝頼は、積極的に織田・徳川領へ攻め入った。
天正2年(1574年)1月、勝頼は東美濃の明智城など16城を落とした。
6月には父・信玄が落とせなかった遠江の高天神城を落とし、東遠江をほぼ手中に収めた。

武田家内に裏切り者が出る

こうして勢力を拡大させた勝頼だったが、一方で長篠城主の奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が徳川方へ寝返るなど、不安要素も多く抱えていた。
そこで天正3年(1575年)4月、勝頼は三河へ侵攻し、貞昌が立て籠る長篠城を包囲した。
武田軍1万5000に対し、長篠城の城兵はわずか500しかおらず、直ぐに落城するものと思われていた。
しかし奥平軍は200丁の鉄砲や大砲を駆使し、武田軍を手こずらせた。

鉄砲と馬防柵を駆使する信長

奥平軍はわずかな兵で武田の大軍に善戦したが、兵糧蔵が焼失し、落城は時間の問題となった。
そこで奥平家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が城を脱出し、徳川家康に援軍を求めた。
この時、既に織田の援軍も三河へ到着しており、両軍は長篠城西方3キロの設楽原で対峙した。

鳥居強右衛門

鳥居強右衛門が味方に援軍が来ることを伝える場面の錦絵(楊洲周延作)
※当時こんな立派な城郭はなかったと思われる

信長の巧みな戦術

このとき織田信長は、丘陵の地形を活かし、武田軍から自分が見えないよう巧みに兵を配した。
さらに戦場に馬防柵を無数に立てた他、あちこちに空堀を築いた。
これにより武田の騎馬隊の進撃を食い止め、3000挺の鉄砲隊で一斉射撃しようとしたのである。

1543年ポルトガル伝来型の火縄銃

1543年ポルトガル伝来型の火縄銃

武田本隊の退路を断つ

また信長は、徳川家臣の酒井忠次に、長篠場付近にある鳶ヶ巣山砦(とびがすやま)への奇襲を命じた。
5月21日早朝、別動隊は鳶ヶ巣山砦と四つの支砦に攻撃を仕掛け、攻め落とした。
これにより長篠城を救援し、さらに武田本隊の退路も脅かす事にも成功した。

鉄砲隊が武田軍を襲う

一方、武田の本隊は織田・徳川連合軍に攻撃を仕掛けたが、馬防柵と空堀のせいで動きが止まってしまう。
そこへ織田・徳川の鉄砲隊が次々と撃ち込まれ、武田の兵らは次々と倒れていった。
ちなみに、かつては鉄砲隊を三段構えで撃つ戦術行使したと云われていたが、現在では否定されている。

長篠合戦図屏風の鉄砲隊(徳川美術館蔵)

長篠合戦図屏風の鉄砲隊(徳川美術館蔵)

信長の「鉄砲の三段撃ち」とは?

3000挺の鉄砲隊を1000挺ずつ3列に並べ、最前列の鉄砲隊が鉄砲を撃っている間に2列目の隊が火縄に火をつけ、3列目の隊が弾を込める。
この3列の鉄砲隊がローテーションすることで、常に敵に一斉射撃が出来るという戦法、と伝わる。

武田の敗北と滅亡

戦いは昼過ぎまで続き、武田軍は馬場信治や山形昌景など名だたる勇将が討死し、1万2000人もの死傷者を出して潰走した。
これ以後、武田家の勢力は急速に弱まり、7年後の天正10年(1582年)、天目山の戦いで滅亡した。
信玄の死から、わずか9年で武田家は滅んでしまった。

諏訪法性の兜

信玄・勝頼が身に着けたと云われる諏訪法性の兜
出典:歴史人(www.rekishijin.jp)


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