明智光秀

明智光秀

謀反を起こした武将

明智光秀は安土桃山時代の戦国武将で、織田信長家臣団の一人。
信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変という謀反を起こして主君を自害させた。
しかし、同じく織田家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗北してしまう。
敗走する中、あっさりと殺害されてしまった。
享年55歳、67歳とも言われる。

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

善政を執り領民に慕われた

謀反者・裏切り者というイメージを持つ光秀だが、領地で善政を行ったとされ、今でもゆかりの地では篤い信仰がある。
光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もあるのだ。
江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」などで取り上げられている。

織田家仕官以前の光秀

謎だらけの光秀の出自

光秀の前半生は謎が多い。
光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である事は間違いない。
信長・義昭に使える以前は、美濃の斎藤道三に仕えた後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えた等の説がある。
※朝倉義景に仕えるまで、足軽大将として足利義輝に仕えていた説もある。
朝倉に仕えた後は、光秀は室町15代将軍・足利義昭に仕えていた。
光秀は信長に仕えるまで室町幕府に仕えていたのだ。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)
江戸時代に等持院像を粗描したもの

義昭に仕えるまで

義昭は将軍就任前に京へ入る為、諸大名の協力を求めていた。
そこで義昭が朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つ事となったのだ。
この頃、光秀は既に信長とも接していたようで、「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧めたという。
光秀という人は、信長に仕える以前から「良い部下」だったようだ。

両属から織田家直臣へ

義昭と信長の両属の家臣となった光秀は、永禄11年(1568年)9月26日の義昭の上洛に加わっている。
永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆が義昭宿所の京都本圀寺(ほんこくじ)を急襲するが、光秀も奮戦、義昭警護の役割をしっかり果たしている。
信長側の記録である『信長公記』にはこの頃から光秀の名前が登場する。

織田信長

織田信長

文武両道の光秀

同年4月頃から、光秀は織田氏支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行っている。
光秀の事務・情報処理において高い能力を持っていた事が伺える。
また、光秀は武将としての戦う力も備えていた事が分かる話がある。
元亀元年(1570年)4月28日、信長は「金ヶ崎の戦い」で浅井長政の裏切りに遭う。
危機に陥った信長は撤退するが、このとき光秀は、秀吉と共に殿を務め防戦に成功する。

義昭との離別

元亀2年(1571年)12月頃、光秀は義昭に「先の見込みがない」と暇願い(曾我助乗宛暇書状)を出している。
これは不許可となるが、光秀はこの時期には幕府を辞める事を決意していた。

義昭と信長の戦い

元亀4年(1573年)2月、信長に反抗する義昭が挙兵する。
光秀は石山城・今堅田城の戦いに義昭と袂を別って、信長の直臣として参戦した。
遂に光秀は信長の家臣として、光秀と対立する事となったのだ。
同年7月、またも義昭が槇島城で挙兵するが、光秀は信長の下で戦っている。
義昭は降伏後、京を追放された。
これを受けて、室町幕府は事実上滅亡となった。
この戦いの後、光秀は坂本城を完成させ、以後はこの城を居城とした。

丹波攻略と畿内方面軍の成立

正式に信長の家臣となった光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆殲滅戦に参加する。
各地での戦いを経験して、光秀の武将としての才能が開花したのだ。
そして光秀は、信長より丹波国攻略を任される。
丹波国は山続きで、その間に国人が割拠しており、極めて治めにくい地域であった。
下は信長と丹波の国人たちの関係は良好であったが、義昭を追放した後、関係が悪化していたのだ。

丹波国・丹後国を平定

4年後の天正7年(1579年)、丹波攻めは最終段階に入る。
8月9日、黒井城を落とし遂に丹波国を平定した。
さらに、丹後国も平定している。
天正9年(1581年)には、京都御馬揃えの運営を任された。

本能寺の変

本能寺の変の1年前、光秀は信長を慕っていた?

天正9年(1581年)年6月2日、光秀は、織田家には無かった軍法を家法として定めている。
その『明智家法』後書きに、こう記してある。

「瓦礫沈淪のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。」

この文章を素直に読めば、光秀は本能寺の変の1年前までは、信長に感謝していた事が伺える。
さらに翌年1月の茶会でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とある。
光秀の真意は分からない。

光秀を打ち据える信長の錦絵

恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長の錦絵(新撰太閤記)

光秀謀反

天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役(きょうおうやく)だった光秀は任務を解かれる。
秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日(6月21日)早朝に出陣するが、その途上の亀山城内か柴野付近の陣で光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。
しかし、雑兵達は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた(本城惣右衛門覚書)。

信長と信忠、親子が討たれる

光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。
光秀軍1万3000人に対し、100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。
しかし光秀は、信長の首を発見出来なかった。
その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠も討ち取った
信長と信忠、親子が一夜にして討たれてしまった。
光秀の謀反はほぼ成功したと言える。

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

山崎の戦い

この時、光秀にとって想定外の出来事が起こる。
羽柴秀吉が本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して引き返してきたのだ。
本能寺の変から11日後の6月13日(7月2日)、天王山の麓の山崎で新政権を整える間もなく迎え撃つ事になった。
決戦時の兵力は、秀吉軍が2万7000対し、光秀軍1万7000と光秀劣勢である。
兵数は秀吉軍が勝っていたが、秀吉軍は備中高松城の戦いと中国地方から近畿への長い移動と疲弊していた。
しかし、勝敗はあっさりと付いてしまう。
秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決した(諸説あり)。
光秀は敗走するが、道中であっさりと殺害されてしまった。

羽柴秀吉

羽柴秀吉(豊臣秀吉)


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