石山合戦

石山合戦

石山合戦とは織田信長浄土真宗本願寺勢力(一向一揆)との戦い。
1570年、織田信長は摂津石山の本願寺に退去を要求するが、本願寺の顕如はこれを拒否。
諸国の門徒(浄土真宗の信者)に蜂起を命令し、信長を攻撃。
合戦は1580年までの10年間にわたったが、遂に本願寺は落城しなかった。

「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)

「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)
大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの(北が左)

信長を苦しめた石山本願寺

各地の一向一揆vs信長の中央戦線

石山合戦は当時最大の宗教武装勢力である本願寺勢力と、織田信長との軍事的・政治的決戦という側面もあった。
石山合戦の終結後は、各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。
なお、「本願寺勢力」とは、本願寺派とすると現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺系)と混交するためである。
石山合戦当時には「大坂本願寺」と呼ばれていたとする説があり、「大坂本願寺戦争」などと呼ばれる。

戦国最大の石山本願寺

顕如が信長の支配を拒む

一向一揆(浄土真宗本願寺勢力)は、戦国大名の支配に激しく抵抗し、織田信長も長く苦しめられた。
その最大のものが、本願寺11世・顕如が籠る石山本願寺での戦いであった。

信長軍を攻撃する一向宗門徒

信長軍を攻撃する一向宗門徒

一向一揆で使われた旗“黄旗組軍艦旗”

一向一揆で使われた旗“黄旗組軍艦旗”
「進まば往生極楽 退かば無間地獄」と書かれている
長善寺蔵

大坂は古代からの交通の要衝

石山本願寺が立つ上町台地の北端は、古代から海上交通の要衝であり、信長はこの地を欲していた。
信長は軍資金の提供と、石山本願寺からの退去を顕如に申し入れ、さらに1570年9月、三好氏が拠点とする野田城福島城を攻撃。
顕如は一向宗門徒(信徒)たちに信長を一向宗の敵とし、戦う事を呼び掛けた。
さらに加賀伊勢長島などで一向一揆勢力が同時多発的に信長に戦いを仕掛ける。

補給路を断たれ、和議を受け入れる

信長は包囲網を築き、石山本願寺を激しく攻め立てたが、落とす事が出来ない。
しかし1578年の第二次木津川口の戦いで信長が勝利すると、石山本願寺は大坂湾からの兵糧搬入が断たれる。
これにより1580年3月、顕如は和議を受け入れ、石山本願寺を信長に引き渡した

信長が目を付けていた“大坂城”

信長はこの大坂を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。
本能寺の変で信長が討たれた後、大坂は羽柴秀吉によって領有された。
そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。
徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。
その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。

合戦の流れ

淀川堤の戦い

元亀元年(1570年)9月12日に顕如は「信長が本願寺を破却すると言ってきた」とし、摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃。
そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接激突した。
この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り篭城の構えを見せた。
信長は朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど、本願寺との戦闘を避けた。
そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたないうちに実質的には終わった。

長島・越前一揆殲滅

本願寺と信長の和議が決裂し、石山本願寺は織田家に対し再挙兵。
本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長と戦っていたが、信長は各個撃破に出る。
信長は先ず長島を攻め、長島は瞬く間に降伏開城した。
しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処し、さらに反攻した者を焼き殺してしまった。
さらに越前では、信長は一向宗内部の混乱に乗じ、瞬く間に越前を制圧する。
本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行った事を知った石山本願寺は、信長と再度和議を結んだ。
しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった。

天王寺合戦

天正4年(1576年)春、顕如は毛利輝元に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵した。
信長は明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲するも、光秀は逆に本願寺勢に攻められてしまう。
危機に陥った光秀は砦に立て篭もり、信長に救援を要請した。
信長は本願寺軍に攻めかかり、光秀はじめとする砦内の兵等と合流して討って出た。
本願寺軍は浮き足立って敗走し、石山本願寺に退却した。

第三次石山合戦の配陣図(北が左)

江戸時代中期に作成されたと考えられる第三次石山合戦の配陣図(北が左)

第一次木津川口海戦

経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請した。
輝元は要請に応じ、村上水軍など毛利水軍の船700から800艘が兵糧・弾薬を運ぶために大坂の海上に現れた。
毛利水軍は数の利を生かして焙烙火矢で織田軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた。
信長は兵を退かざるを得なくなった。

紀州征伐

天正5年(1577年)2月13日、信長は雑賀三緘衆らの協力を得、対抗する雑賀勢の篭る和泉・紀伊に攻め入った。
この攻勢で周辺一帯が荒れ果て、雑賀衆が降伏した。

『石山本願寺合戦』

『石山本願寺合戦』
石山合戦を描いた錦絵
雑賀衆を率いた鈴木孫一の名も見える

第二次木津川口海戦

木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に、大砲を装備した黒船を建造するよう命じ、滝川一益にも白船を一艘建造させた。
九鬼嘉隆らの船団は伊勢大湊を出発し、大坂へ向かった。
雑賀衆が先に九鬼水軍を攻撃開始するが、嘉隆がこれに応戦し勝利、石山本願寺への海路を封鎖した。
毛利水軍が織田軍に対して反撃に出るが、この毛利水軍も九鬼水軍が撃破。
信長は遂に、毛利水軍を追い返す事に成功した。
これにより1580年3月、顕如は和議を受け入れ、石山本願寺を信長に引き渡した。


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