三方ヶ原で徳川・織田連合軍を駆逐した武田信玄だったが、その途上で発病し急死する。
信玄は京は目の前にして、無念の最期を遂げた。
同時に織田信長は窮地を脱する事が出来た。
こののち信長は、将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府が事実上滅亡する事となる。
信玄の死と将軍追放で、信長包囲網は崩壊する。
元亀3年(1572年)12月、三方ヶ原で徳川・織田連合軍を破った武田信玄は遠江で年を越し、1月に三河へ侵攻する。
そして東三河の要所である野田城を包囲し、これを攻め落とした。
野田城が落ちた事で三河の防衛網は崩壊し、織田領侵攻も時間の問題となった。
ところが武田軍は急に進路を変え、信濃へと引き返す。
以前から患っていた信玄の病気が重くなったからだ。
そして元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃駒場で53年の生涯を閉じた。
信玄は自分の死を3年間秘密にするよう遺言したと云われているが、「信玄死す」の報は患者などを通じ、あっという間に諸国へ広まった。
信玄の上洛を誰よりも心待ちにしていたのは、将軍足利義昭であった。
信玄の死の2カ月前には自ら挙兵し、反信長の戦いを本格化させた。
これに対し、信長は上京を焼き討ちして義昭を威嚇し、朝廷を介して講和が成立する。
ところが7月3日、義昭は講和を破棄して再び反信長の兵を挙げた。
義昭は槇島城(まきしま)に立て籠って抵抗したが、信長は7万の大軍で城を包囲する。
一般的には義昭が追放された元亀4年(1573年)を室町幕府の滅亡の年とする。
義昭は京を追放された後も、将軍職に留まっていた。
備後で反信長活動を続けており、その後、第二次信長包囲網の構築を行ったのは義昭である。
京を追われても、義昭の将軍としての権威は無くなってはいなかったのだ。
「将軍追放=幕府滅亡」と定義するのは難しいといえる。
信玄の死、将軍の追放で信長包囲網はほぼ瓦解した。
石山本願寺とは和議が成立しており、残す信長の敵は浅井・朝倉だけになった。
8月8日、信長は3万の軍勢を率いて岐阜城を立ち、浅井・朝倉と決着をつける為に近江に攻め入った。
織田軍が近江に攻め入ると、浅井長政は小谷城に籠城した。
また朝倉義景は家臣の反対を押し切り、2万の兵を率いて織田軍に対峙する。
8月12日、織田軍は朝倉方の大嶽砦(おおずく)を攻め落とした。
この時、信長は朝倉方の捕虜を解放し、大嶽砦が落ちた事を義景に知らせた。
最前線の砦が落ちれば、義景は引き返すと信長は読んでいたのである。
すると義景は、信長の予想通り撤退を始めた。
朝倉軍は士気が低く、最初から本気で戦うつもりがなかったのだ。
撤退の報せを聞いた信長はただちに朝倉軍を追撃し、これを散散に打ち破った。
朝倉軍はほぼ壊滅し、義景は命からがら本拠である一条谷に引き返したが、部下の裏切りに遭い、最後は自害して果てた。
これにより朝倉家は滅亡した。
その後、信長は北近江に軍を返して小谷城を囲み、総攻撃を命じた。
8月27日には羽柴秀吉の軍勢が京極丸を占領し、さらに長政の父・久政が籠る小丸も陥落させた。
久政は自害し、残すは長政が籠る本丸のにとなった。
そして9月1日、長政は自害し、小谷城は落城した。
これにより浅井家は滅亡したが、長政の妻・お市と3人の娘たち(茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう))は助けられた。
その後、3人の娘は数奇な運命を辿っていく事になる。