義昭を奉じて信長上洛

足利義昭を奉じて信長上洛

美濃を平定した織田信長は、将軍候補・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たす。
そして義昭を将軍の座に就ける事に成功した信長は、天下布武に向けて歩みを進める事になる。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)
江戸時代に等持院像を粗描したもの

兄の死後、各地を放浪した義昭

13代将軍義輝 暗殺

織田信長が美濃攻めを行っていた永禄8年(1565年)、京では13代将軍足利義輝(よしてる)が家臣に暗殺されるという大事件が起きた。
下手人は三好一門の重鎮である三好三人衆、そして三好家の家臣・松永久秀であった。

足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)

足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)

足利将軍家の再興を目指す義昭

義輝の弟・覚慶(かくけい:足利義昭)は興福寺に幽閉・監禁されたが、細川藤孝(ふじたか)ら義輝の側近に救出され、近江の矢島へ逃れた。
そして還俗(げんぞく:僧が僧籍を離れて俗人にかえること)して義秋と名乗り、足利将軍家の再興を目指した。

信長を頼る義昭

義秋は自分を奉じて京に上洛してくれる大名を求め、各地を放浪した。
最初は若狭の武田義純(よしずみ)を頼り、次に越前の朝倉義景(よしかげ)を頼った。
しかし義純も義景も、義秋を奉じて上洛する意思はなかった。
そこで改名した義昭は朝倉家家臣だった明智光秀の紹介で、美濃を平定したばかりの織田信長の許へ身を寄せた

信長、上洛を果たす

信長は義昭の要請を快諾し、永禄11年(1568年)9月、大軍を率いて出陣した。
信長の前には南近江の六角承禎(じょうてい:義賢(よしかた))が立ちはだかったが、短期間で駆逐されてしまう。
こうして岐阜を発してから、わずか20日あまりで、信長は上洛を果たした。

将軍のいう事を聞かない信長

京の覇権を争っていた三好三人衆は退却し、松永久秀は信長に臣従する。
そして足利義昭は征夷大将軍に任じられ、幕府を再興した。
義昭は感謝の意味を込めて、信長を管領代か副将軍に任じようとするが、信長は固辞し、岐阜へと帰国した。
後に対立する信長と義昭だが、両者の仲はこの頃から抜き差しならぬものがあった。

この時期、光秀の躍進が始まる

信長は自身の代わりに京を統轄する京都奉行を置いたが、この職に任じられたのが明智光秀だった。
これ以後、光秀は織田家臣として飛躍的な出世を果たす事になる。

義弟・浅井長政の裏切り

元亀元年(1570年)4月、織田信長は再三の上洛命令を無視した朝倉義景を攻めるべく、越前へ兵を進めた。
織田軍は朝倉方の支城を次々と陥落させたが、越前金ヶ崎城を落としたところで、信長に予想外の一方が届いた。
同盟を組んでいた義理の弟である浅井長政が反旗を翻し、織田方に向けて兵を進めていた。

浅井長政像(長浜城歴史博物館蔵)

浅井長政像(長浜城歴史博物館蔵)

朝倉と繋がりがあった浅井家

浅井家は信長と同盟を組んでいたが、同時に朝倉家には祖父・亮政(すけまさ)以来、多大は恩を受けていたのだ。
長政は苦悩の末、義理の兄である信長を裏切り、朝倉家に味方する道を選んだのだ。

信長撤退

危機に陥った信長だったが、その判断は冷静だった。
信長は木下秀吉(後の豊臣秀吉)や明智光秀らに殿(しんがり:軍が退く時、追手を防ぐ役割)を任せ、先頭に立って真っ先に京へ引き返した。
そして6月、盟友の徳川家康と共に近江へ出陣し、浅井・朝倉連合軍と姉川で対峙した。

姉川の戦い

織田軍は長政率いる浅井軍8000と対峙し、家康は朝倉軍1万と対峙した。
織田軍は浅井方の猛将・磯野員昌(いそのかずまさ)に苦しめられ、一時は最後の本陣まで敵が迫る。
だが徳川軍が朝倉軍を後退させると形勢は逆転し、織田軍は浅井軍を散散に打ち破った。
長政は小谷城へ敗走し、戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わった。


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