本能寺の変

本能寺の変

天下統一を目前にした織田信長が横死した本能寺の変。
謀反を起こしたのは重臣の明智光秀であった。
少ない兵力で本能寺に滞在していた信長は、事態を把握した後、火を放ち自害した。
信長の嫡男・信忠も間もなく光秀に討たれ、自害し果てる。
親子が討たれた事で、織田家の天下への道は一夜で尽きてしまった。

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

1万3000の大軍が本能寺を包囲

甲斐の武田勝頼を滅ぼし、織田信長は日本の約半分を支配下に収めた。
もはや信長に対抗しうる勢力はなく、天下統一は目前まで迫っていた。

信長は京都の本能寺に滞在

天正10年(1582年)5月29日、信長はわずかな供をつれて京の本能寺へ入った
暫く京に滞在した後、信長は羽柴秀吉の中国攻めの援軍に向かう予定だったのだ。

突如、光秀の大軍が襲撃

だが6月2日早朝、明智光秀率いる1万3000の軍勢本能寺を取り囲んだ。
信長の周りには20〜30人の小姓衆しかいなかったが、それでも信長は自ら槍を持ち、弓を射て戦った
そして、信長は手傷を追うと奥に入り、火を放って自害した。
天下統一を目前に控えての信長の最後はあまりにあっけないものだった。

織田信長

織田信長

嫡男・信忠も自害

光秀謀反の報せを聞いたあと、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠は二条御所に移り、明智軍と戦った。
だがわずかな兵では太刀打ちできず、信忠も自害して果てた。

江戸時代に創られた物語で余計に謎が深まる

戦国史上最大のクーデターとなった本能寺の変だが、光秀がなぜ信長を裏切ったのか、その理由は明らかになっていない。
江戸時代には憶測や誇張で書かれた軍記物が登場したが、それにより、真相はますます分らなくなっている。

光秀は何故、信長を討ったのか?

江戸時代に多くの説が創作された

江戸時代の軍記物で頻繁に語られているのが、光秀が信長に対して何某かの怨みを持っていたという説である。
この説は羽柴秀吉が本能寺の変の4カ月後に発布した顛末書に描かれていたものが独り歩きしたもので、この「怨恨説」にちなんで、多くのエピソードが創作された。

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

「明智軍記」と「織田軍記」

「明智軍記」には中国へ出陣する光秀に対し、信長が出雲・石見を与える代わりに丹羽・近江の所領を没収する事が記述されている。
また「織田軍記」には、信長が光秀の生母を見殺しにしたという逸話もある。
さらに信長が光秀を折檻したという説もあるが、どれも一級資料による裏付けはなく、創作の域を出ていない。

また怨恨説の他にも、光秀に天下取りの意欲があったという説がある。
これも秀吉が顛末書で広めたものだが、確たる証拠はない。

近年の有力な説

信長の四国政策転換への反発説

近年では、怨恨説や野望説に変わって主張されているのが、信長の四国政策転換への反発説である。
光秀は四国の長宗我部元親との取次ぎ役を務め、友好関係を築いていた。
ところが信長は長宗我部家を征伐する意向を示し、四国征伐軍を編成した。
これにより光秀の面目は丸潰れになり、出世の見込みが無くなった光秀が自暴自棄になって謀反を起こしたという説である。

光秀老齢説

一般に光秀は55歳で死んだとする説が根強いが、これには説得力のある説は皆無である。
当代記という江戸時代初頭に書かれた書物には「67歳」で光秀が没したと記されている。
この記述が事実であれば、光秀はあまり先が長くなかった事になる。
また、光秀の息子・光慶(みつよし:1569〜1582年)はまだ幼く、光秀の後が就ける年齢でなかった。
光秀は、自分の没後に信長が光慶を召し抱えてくれると思えなかった為、先に信長を亡き者にした、という説である。

室町幕府の再興説

近年の歴史研究で、一つの結論が出ている。
将軍足利義昭を奉じて室町幕府を再興する」というものである。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)
江戸時代に等持院像を粗描したもの

光秀直筆の書状が発見

光秀が本能寺の変から10日後に土橋重治へ宛てた手紙が残されている。
書状の内容は、紀伊雑賀における反信長勢力・土橋重治から受けた支援に返礼するもの。
光秀は「上意(将軍級の貴人)」が「御入洛」、つまり足利義昭と思わしき人物が都に入る、と書き残している。
義昭が再び都に入るという事は、光秀は足利幕府の再興を企てていた可能性が高いといえる。

書状は重治が義昭の指示を受けて光秀に協力を申し出ていた事と、光秀も義昭が京都へ帰還するための協力を事前に約束していたことを物語っている。
他の史料では、光秀が室町幕府で重職にあった細川家(娘の嫁ぎ先)を中心とした国家を構想していたことや、光秀と義昭との関係が復活していたことも判明している。

光秀直筆「6月12日付土橋重治宛光秀書状」(

光秀直筆「6月12日付土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市ミュージアム所蔵)


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