秀吉の中国大返し

秀吉の中国大返し

本能寺での信長の死を知った秀吉は、一時狼狽するも「中国大返し」と呼ばれる素早い動ぎで軍を引き返す。
そして、秀吉は明智光秀を討つ事に成功し、信長の仇を討った。
主君の仇を討った事で秀吉の織田家臣団での発言力は大きく高まり、後継者を決める清須会議も優位に進めた。

羽柴秀吉

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

本能寺の変で秀吉大慌て

秀吉は毛利家と戦っていた

天正10年(1582年)3月、織田信長は宿敵・武田家を滅ぼし、天下統一を果たす目前にいた。
信長にとって残る敵は、中国地方の毛利家、四国の長宗我部家、北陸の上杉家、九州の島津家となった。
本能寺の変が勃発した時、秀吉は中国地方の毛利家と交戦中であった。

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

本能寺焼討之図(明治時代、楊斎延一画)

秀吉の水攻め

織田信長は羽柴秀吉に中国地方の攻略を命じ、秀吉は2万の兵を率いて毛利の属将である清水宗治(むねはる)を攻めた。
秀吉はたった12日で宗治が籠城する備前高松城の周囲に全長3キロに及ぶ巨大な堤防を築き上げた。
近くに流れる足守川を堰き止めて水を堤防の中へ流し込むという策を取る。

本能寺の変で信長横死

秀吉の備前高松城の水攻めは功を奉じたが、そのとき、戦国史上最大の謀反「本能寺の変」が勃発した。
織田信長は秀吉から応援要請をを受け5月29日に安土城を出発したが、その後、京都の本能寺にしばし滞在していた。
そして6月2日未明、臣下である明智光秀の謀反により、京都の本能寺で命を落とした。

黒田官兵衛の一言で秀吉が動く

翌3日の晩にその知らせを聞いた秀吉は狼狽する。
しかし、参謀の黒田官兵衛の「運が開けてきましたな、天下を取る絶好の機会ですぞ」という言葉で我に帰ったと云われる。
秀吉は信長の死を毛利側に隠して講和を結ぶと、翌6日には2万の兵を率いて急遽、京に向けて出発した。
この一連の秀吉の俊敏な動きを「中国大返し」という。

黒田官兵衛-如水居士画像(崇福寺蔵)

黒田官兵衛-如水居士画像(崇福寺蔵)

秀吉の中国大返し

秀吉の軍は不眠不休に近い行事を続け、高松城から尼崎までの約187キロを一週間足らずで駆け抜けた
その間、光秀は筒井順慶や細川藤孝、高山右近ら親しい諸将に援軍を求めるが、誰も光秀には協力しなかった。
※なお、この時の光秀は朝廷から征夷大将軍に任じられていたとする説もある。
光秀軍1万6000は秀吉の軍を迎え撃つ為、下鳥羽の山崎にある龍造寺に陣を置く。
一方、秀吉に呼応した軍は総勢4万になり、山崎の北にある天王山の麓に布陣した。

秀吉の中国大返しの経路図

秀吉の中国大返しの経路図(『イラストで丸わかり!戦国史(洋泉社MOOK)』より)

光秀が敗北し、三日天下の内に死亡

戦いは圧倒的に秀吉軍の優勢のまま、たった2時間で光秀の敗北に終わった。
光秀はわずかな手勢と本拠地である坂本城へ逃げるが、その途中に落ち武者狩りの土民により斬首され、その首は本能寺に晒されたとも云われる。
※光秀の死の経緯に関しても諸説あり、正確な事は分かっていない。

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

織田家の跡継ぎ問題

信長の死により、織田家では後継問題が浮上する。
嫡男である信忠も光秀により討たれてしまっており、跡継ぎ問題が複雑化したのである。
そこで信長配下の重臣たちは尾張の清州城へ集まり、後継者を決める会議(清州会議)を開いた。

清須会議

秀吉推挙の信長の孫が後継に

会議の席上、譜代の重臣である柴田勝家信長の三男である信孝を推薦した。
それに対し秀吉は、死んだ嫡男・信忠の子である三法師(さんぼうし:秀信)を推挙した。
しかし、問題は三法師がまだ3歳である事だったが、同席した丹羽長秀や池田恒興も三法師を跡継ぎと認めたのである。
確かに血統で言えば三法師が相応しいが、まだ3歳では何も出来ない。
そこでは後見役を叔父の信孝が受け持つ事になったが、実質は秀吉が後見役を担っていた。
こうして織田家臣団の中で実質的にトップになった秀吉は、その後も自分主導で信長の葬儀を盛大に執り行うなど、自身の地盤を築いていく。
※本能寺の変で信長の亡骸は見付かっておらず、木像が用いられた

不満を持つ柴田勝家

勝家によっては不満が残る内容であった。
勝家は信長の配下の中で秀吉よりも格上の武将であったのだ。
勝家と秀吉の確執は深まっていき、後の賤ヶ岳の戦いに繋がる。

柴田勝家像(個人蔵)

柴田勝家像(個人蔵)


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