信長の次男・信雄を切っ掛けに秀吉と家康は対立し、小牧・長久手の戦いに発展する。
戦は秀吉の劣勢に終わるも、直後に秀吉と信雄が和睦してしまい、家康には戦いの大義名分が無くなってしまう。
戦略的には秀吉の勝利に終わり、天下取りの流れは秀吉に傾く事となった。
ただし、秀吉が天下人となった後にこそ、「天下人に戦で勝った家康」の名将ぶりが際立っていく。
羽柴秀吉は、ライバルであった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った後、いよいよ天下獲りに乗り出す。
しかし、その秀吉の野望を阻もうとする人物が現れた。
織田信長の盟友であった徳川家康である。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)
家康は以前から信長と同盟を結んでいたが、信長の死後、急速に台頭してきた秀吉の存在を疎ましく感じていた。
そこで信長の次男である織田信雄に接近する。
信雄も当初は秀吉と手を組んでいたが、秀吉のあまりの勢いに不安と不満とを感じ始めていた。
そこで信雄と家康は手を組む事で秀吉の勢いを削ごうとする。
天正12年(1584年)、遂に羽柴秀吉軍と、織田信雄・徳川家康連合軍との小牧・長久手の戦いが始まった。
家康はかつて、甲斐の武田信玄などと刃を交えており、相当な戦上手であった。
三好秀次が率いる別動隊を壊滅させ、有力武将であった池田恒興も討ち取るなど、秀吉軍に対して脅威を与えた。
このままでは無駄な損害が増えるだけだと考えた秀吉は、信雄と和平を結んで戦を終結させる。
これにより家康には戦う大義名分が無くなり、仕方なく軍を退かせた。
戦では劣勢だったが、政略により実質的に勝利したのは秀吉だったといえる。
家康は、秀吉の母である大政所・仲の子、朝日姫(秀吉の妹)を妻に持つ。
また、家康の三男・秀忠の妻であるお江、秀吉の妻・淀殿の茶々は、浅井長政の娘である。
家康と秀吉は、直接の血の繋がりはないモノの親族であった。
また、秀吉と淀度の子・豊臣秀頼は、家康の三男・秀忠の子、千姫を妻にしている。
これらの縁戚は、秀吉が家康を屈服・臣従させる為の戦略であった。
当初、家康は秀吉と縁戚となる事を拒み続けていたが、秀吉が朝廷より関白の地位を授かった後、拒み続ける事が出来なくなったのだ。
秀吉が家康に娶らせた朝日姫は実質的には人質であり、関白にここまでされて断るのは、家康にとってあまりに大義がなかった。
家康は結果として秀吉に臣従する事となる。
秀吉にとっては、家康に戦を仕掛け敗北するよりも、家康を飼いならす戦略を選んだのだ。
そうまでしなければならない程、秀吉にとって家康とは脅威であったといえる。