信長により追放された将軍・足利義昭は、毛利家の庇護下で再び反信長包囲網を築いた。
そして、その中心にいたのが義将・上杉謙信だった。
武田の次は、越後の龍と云われた強敵・謙信が信長の前に立ちはだかった。
しかし、謙信も間もなく急死する。
謙信の死後、その他の勢力も信長に敗北していき、包囲網は消滅する。
しかし、直後に本能寺の変が勃発し、信長も志半ばで果てる。
織田信長にとって、最大の敵は石山本願寺だったともいえる。
元亀元年(1570年)に始まった石山本願寺との戦いは、何度か和睦を挟みながら、足掛け11年に渡って繰り広げられた。
本願寺門跡の顕如は、全国の一向宗門徒に打倒信長を呼び掛け、さらに毛利家や雑賀衆(さいか)とも手を組んで信長に敵対した。
そして、この石山本願寺に目を付けたのが、京を追われた将軍足利義昭だった。
義昭は諸国の大名に反信長を呼び掛け、上杉家や毛利家、石山本願寺などを中心とする第二次信長包囲網を形成した。
この信長包囲網には松永久秀や波多野秀治(はたのひではる)など、かつて信長に従っていた大名も含まれていた。
彼らは信長に反旗を翻し、その足元を大いに脅かした。
長篠の戦いで武田軍を撃破し、信長は天下人への道をひた走る事となった。
しかし、信長は「越後の龍」と称された上杉謙信には恐れを抱き、長らく友好的な態度を取り続けていた。
謙信は長年の懸案だった越中一向一揆が解決すると、武田勝頼と同盟を結んだ。
武田との同盟を結ぶ事で、近隣諸国の脅威を取り払った謙信は信長との同盟を破棄、西へと兵を進めた。
越中平定後、謙信は能登(のと)にも侵攻し、同国を治める畠山家の居城・七尾城を取り囲んだ。
畠山家からの救援要請を受けた信長は、柴田勝家や羽柴秀吉、丹羽長秀といった名だたる将を北陸へ送った。
だが天正5年(1577年)9月、織田の援軍が到着する前に七尾城は陥落する。
それを知らぬまま織田軍は加賀に入ったが、ここで秀吉が勝家と対立し、勝手に陣を離れる事件が起きる。
こうした内紛もあり、織田軍には足並みの乱れが生じていたが、そんな状況を謙信は見逃さなかった。
七尾城陥落の報せを聞いた織田軍は撤退を開始したが、そこへ謙信率いる上杉軍が襲い掛かる。
織田軍は大打撃を受け、さらに増水した手取川を渡ろうとして多数の溺死者を出し、大損害を出した。
この戦いで謙信は北陸の支配権をほぼ手中にし、上洛への道を開いたのである。
上杉謙信は手取川の戦いで織田軍を破った後、一旦、春日山城へ戻り、次の遠征の準備を進めた。
ところが、天正6年(1578年)3月15日、謙信は突如倒れ、そのまま亡くなってしまう。
上洛への手応えを掴んだ謙信の死は、またしても信長を救う形となった。
謙信には実子がおらず、2人の養子(景勝・景虎)がいた。
ところが、謙信は誰を後継者にするか定めないまま亡くなった為、後継を巡る争いが始まった。
これを「御館の乱(おたてのらん)」といい、謙信の甥にあたる景勝が勝利したが、血で血を争う内乱は上杉家の衰退を招いてしまう。
そしてこれを機に織田軍が反撃に転じ、上杉領だった加賀・能登・越中へと侵攻した。
この時、織田軍の司令官として指揮を執ったのが、織田軍団の重鎮・柴田勝家だった。
勝家は信長から北陸攻めを任され、1世紀弱に渡り加賀を支配した一向一揆を鎮圧。
更に能登を平定後、越中にも進出した。
天正10年(1582年)6月、勝家は魚津城を攻め落とし、越中をほぼ支配下に収めた。
これにより上杉家は窮地に立たされたが、本能寺の変で織田信長が横死した事で、景勝は九死に一生を得た。
柴田勝家が北陸で活躍する一方で、明智光秀は信長に抵抗する畿内諸勢力の鎮圧を任された。
天正3年(1575年)から丹羽・丹後の平定に取り掛かったが、その最中に丹羽の波多野秀治が反旗を翻し、光秀を手こずらせた。
だが光秀は天正7年(1579年)にこれを平定、その功績により丹羽一国(約29万石)を与えられた。
また天正5年(1577年)には、信長を再度裏切った松永久秀の居城・信貴山城(しぎさん)を攻撃している。
この時、信長は「平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」と久秀に伝えた。
だが久秀はこれを拒み、最後は茶釜に爆薬を仕込んで自爆した。
将軍を暗殺し、「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた男の壮絶な最期だった。
この時期、信長包囲網はほぼ完全に消滅した。
また天正10年(1582年)に武田家が滅びると、滝川一益が関東令官となった。
上野一国と信濃二郡を与えられた一益は「関東八州の御警固」を命じられたが、その2カ月後に本能寺の変が起こり、一益は伊勢長島へ敗走。
関東方面軍はあっという間に瓦解した。